この日本、信仰はあるか



日本の一般社会へも、キリスト教界であっても、
キリストの福音は届いていないと言ってよい。

キリストの福音とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
神のひとり子キリスト・イエスが、十字架にかけられ、
すべての人の神への罪を、その身に負い、
神の怒りをその身に受けて、
死んで、私たちの罪を贖って(あがなって)くださったという出来事です。

神への罪には、当然のこととして神の裁きが待っています。
神の裁きからの救いこそ、キリスト教の信仰が言うところの”救い”なのです。

キリストは十字架に死ぬことによって、
神の怒りの裁きをその身に受けてくださったのです。
私たちに代わって・・・・。

キリストへの信仰とは、このキリストの”十字架のわざ ”が、
キリストと同じように、信仰する者にあてはめられ、
キリストと同じ扱いを受けることを意味します。
つまり、神への罪が赦されるのです。
つまり、罪に死んで復活しなければならないのです。

罪の中をさ迷い歩く、本性的な、生まれながらの愚かな存在から、
神に聞き従う者へと、
神の前で正しい存在へと生まれ変わるのです。

神の怒りの裁きからの救いによって、
地獄ではなく、天国への道が開かれ、
永遠の命が約束されるのです。

信仰者の死とは、天国で目覚めるために眠りにつくことを意味します。

キリストの福音とは、

キリストの生と死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いそのものなのです。

私たちは、この世俗で生きている以上、
どこまでも罪深い性質は付きまとってきます。

”神への罪 ”というものは、
私たちの思いや言葉や行為や行動という形になって、
自分にたいして、人にたいして、神のたいして、
罪を犯し続けているのです。

クリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても同様です・・・。

私たちは、とても乱れた社会に生きています。
私たちの生まれながらに負っている性質がその原因なのです。

その性質を理解して、つねに意識して、
自らを制すること・・・。
そして神に立ち返ること・・・。
それが信仰生活なのです。

まことの信仰生活というものは、
キリストの福音に立つことによって、
さまざまに物事の真実の姿が見えてきますから、
それを良かれと思わない人たちにとっては、
信仰者の存在は無視できなくなります。

大切なこと、大事なこと、
ましてや真実を知らなくても良いのではないのです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on August 12, 2014.