人間が生きて行く上でよりどころとするものについて



信仰というものを、人間か生きている過程で、
人間の存在と共にあるものとして考え、
よりどころとなるものであって、
信仰することが目的とはならないのです。
信仰は、人間の経済や暮らしのすみずみにまで、
知らず知らずに影響を与えるものです。
仏教やキリスト教、ユダヤ教にイスラム教、
ヒンズー教などなど、
その信仰がその社会に大きく働きかけ作用しています。

私たちの日本でも、生活習慣の中に、共同生活の中に、
色濃く古来から伝えられている信仰の影響を強く受けているものが多くあります。

現代社会では、人間の手で作られたラインやスマホといった、
依存症的なテクノロジーさえあらわれています。
確かに、信仰することを目的とした信仰もあるわけです。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、
天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

(新約聖書・マタイによる福音書・7章21節・新共同訳聖書)

キリストの福音というものが、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事の内容と意味とが、
私たちに与える影響というものは、とても大きいものです。

なぜなら、私たちの思いであったり、言葉であったり、
行為や行動に、多きく影響を与えるものだからです。

キリスト教が問題としているのは、
私たち人間は、生きて行く上で、
”大切なことは目には見えない ”・・ということを言っているのです。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
その大切なことを、私たちに教え示したのです。
イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活という出来事に出合った人は、
その出来事により、
自分自身に向き合うことを強いられます。
自分自身に向き合うように仕向けられるのです。
それが、十字架の上に、
手首足首を釘で打ち付けられたキリストの姿なのです。

イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

自分自身に向き合うことを強いられるということは、
人間が生きて行く上での基本的な根本的な問題を問うものとしての”福音 ”ということになります。

私たち人間は、ある理由により、
”大切なことは目には見えない”状態に置かれているのです。

最初の人間アダムが創造主なる神に背いて楽園を追放され、
すべての人間の生に死が入り、地は呪われ、
アダムに続くすべての人間は、地上を労苦して生きて行かなければならなくなったのです。

この神への背きの罪こそが、人間の罪、
”原罪・ゲンザイ ”と言われるものです。
私たちが生まれながらに負っている性質のことなのです。
その性質が、自分にたいして、人にたいして、
神にたいして罪を犯し続けているのです。

ですから私たちに求められているのは、
大切なことは目には見えない状態から、
イエス・キリストに聞き従う信仰に移ることなのです。

自分自身に向き合い、悔い改め、
キリストに聞き従う生き方に改めよと・・・・。
生きて行く上でのよりどころとして、
イエス・キリストを受け入れ迎えよと。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
岩を土台としていたからである。
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、
砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、
倒れて、その倒れ方がひどかった。」

(新約聖書・マタイによる福音書・7章24〜27節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 26, 2013.