復活・よみがえりの信仰


 キリスト教の信仰において、

 イエス・キリストの復活・死人のうちからのよみがえりがなければ、

 キリスト者の信仰はむなしいものとなります。

 イエス・キリストの死と復活があるから、

 色々と問題の多い古い自分を、

 キリストとともに死にわたすことによって、

 新しく生まれ変わり、

 希望と展望に満ちた、

 新しい歩みをすることができるのです。

 今の自分の生き方に肯定的であろうとするなら、

 新しく生まれ変わる必要性などありません。

 死と復活ということは、

 新たな創造を意味しているからです。


 「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、

 新しく創造された者なのです。

 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新共同訳聖書)


 今の自分にこだわり続けるのなら、

 新しい創造など必要ありません。


 「 決してそうではない。

 罪に対して死んだわたしたちが、

 どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 それともあなたがたは知らないのですか。

 キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、

 またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章2〜3節・新共同訳聖書)


 しかし日本のキリスト教の教会に期待を寄せている人たちと言えば、

 教会にこそ、自分の生き方を肯定するものがあると信じている人たちは、

 教会にこそ、自分の生き方にたいして肯定的な態度と励ましがあると考えているのです。

 自分の生き方にたいして社会的な評価が得られないものだから、

 傷つき疲れているのです。

 人間という存在は、

 自分の持っている価値観からなかなか自由になれない性質を持っています。

 それが生まれながらに負っている性質でもあるのです。


 「 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、

 その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、

 罪に支配された体が滅ぼされ、

 もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 死んだ者は、罪から解放されています。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章5〜7節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 11 January 2012.