十字架が見えていたなら
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日本のクリスチャン人口は、約1パーセントと言われています。
正確に言えば、カトリックやプロテスタント、キリスト教的なものまで含めて、
日曜日などに、
定期的に行われている礼拝や集まりに集まっている人たちの総数と言うことになります。
私が属しているプロテスタントともなれば、
さらに少なく0.4パーセントというところでしょうか。
プロテスタントの教会は、全国に約8000あります。
毎日曜日に行われている礼拝での平均出席者数は30名程度です。
100人を超える教会もあれば、
なおさら少ない椅子席に空席が目立つという教会もあります。
日本でのキリスト教の宣教の歴史はかなり古く、
また第2次世界大戦が日本の敗戦で終わったとき、
諸外国から宣教師が大挙この日本へとキリストの福音を伝えようとおしよせてきました。
しかしながら、
一時的にクリスチャンは増えたものの、
また元の静けさに逆戻りしたようです。
お隣の韓国では、3人にひとりが、
中国では1億人をこえるクリスチャンがいます。
うがった言い方をすれば、日本ほど、
福音・イエス・キリストの十字架の出来事が理解できない社会は、
他に例を見ないのではないのだろうかとさえ思わされます。
キリスト教と言えば、イエス・キリストです。
聖書・バイブルです。
そして十字架です。
キリスト教が伝えようとしている事柄は、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活なのです。
十字架と言えば、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
このイエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味が分かってこそ、
キリスト教そのものが分かるものなのです。
聖書・バイブルは、次のように語っています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜10節・新共同訳聖書)
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜10節・新改訳聖書)
神のひとり子イエス・キリストが十字架の上で死なれたこと、
そして葬られ、三日目によみがえられたという出来事と、
自分とのかかわりが分からないでいるなら、
クリスチャンであっても例外ではありません、
分かってこそキリスト教も分かるはずなのです。
「では、何と言われているのだろうか。
『御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、あなたの心にある。』
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章8節・ 新共同訳聖書)
「では、どう言っていますか。
みことばはあなたの近くにある。
あなたの口にあり、あなたの心にある。
これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章8節・新改訳聖書)
イエス・キリストの十字架の出来事が分かってこそ、
「救い」・救済ということが理解できるはずなのです。
救いとは何でしょうか、
それは、今ある状況や状態から、
今の混沌や混乱や不安から、
新たなところへ、
平安・安全・安心なところへ移されることではありませんか。
クリスチャンであっても、
十字架の出来事を自分のこととして、
自分自身が十字架にかけられ、罪人として処刑されたとは思えず。
自分の身に置き換えることができず、
自分は罪など犯してはいないのだからと。
苦しみ続けている方は多いものです。
救いとは何でしょうか、
決して、必要が満たされることではありません。
救いとは、
神の怒りの裁きからの救いなのです。
私たちに代わって、私たちの罪をその身に負って、
罪人として、神の怒りの裁きをその身に受けられた、
十字架の上で罰せられたイエス・キリスト・・・・。
罰せられたで終わりではありません。
葬りと復活なくして、救いの完成は無いのです。
世界を造られた父なる神が、
ひとり子イエスを死人の中からよみがえらせた出来事を、
心で信じて、口で言いあらわせることではありませんか。
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味との理解です。
自分の口で言葉で説明できなければ、
それが最も根本的なことなのです。
十字架の出来事が理解できないのなら。
まことの救いとは言えないことになります。
言葉で説明できてこそ確信もあるのではありませんか。
復活・よみがえりとはいったい何でしょうか。
言いかえれば、
苦しみや混乱の元である自分の願いや望みを思いというものを捨て去らなければ・・・・。
人間とは、もともとからして、物事の真意が見えず、
愚かで弱く未熟な存在なのです。
その認識に立って、その状態から抜け出すことを考えなければ・・・。
人間の欠陥性から生まれてきた勘違いや的外れを捨て去らなければ・・・・。
的外れな願いや望みといったものを、
それを死にわたし永久に葬り去ること。
それが死と葬りなのです。
そうしなければ復活はありません。
「主」の意思にかなった復活は望めないのです。
キリストへの信仰とは何でしょうか。
そこには、十字架の出来事という、
父なる神の、血のにじむ、選択と犠牲ががあったわけです。
信仰とは、その選択と犠牲にたいする感謝と応答のはずなのです。
父なる神は、私たちの目に、目に見えるかたちで、
その意志を、選択と犠牲というかたちであらわされたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新改訳聖書)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜18節・新共同訳聖書)
日本人の目には、イエス・キリストの十字架の出来事は見えていないのでしょう。
十字架が見えていたなら、
今とは違ったものになるはずです。
イエス・キリストは、私たちに代わって、
十字架の上で死んだのですから。
ひとりの人がすべての人のために死んだのです。
あまりにも明らかな出来事なのですが・・・。
北白川 スー
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Wrote up on September 25, 2016.