なぜイエス・キリストに振り返らないのか



キリスト教の広まりが見られない日本。
長年にわたって少数派に甘んじているクリスチャン。
キリスト教はカルトな宗教だと見ている人の多い日本。

なぜ、日本人はイエス・キリストに振り向いてみようとはしないのでしょうか。
はずかしめられ、ののしられ、ムチ打たれ、苦痛にあえぐイエス・・・。
苦しみ傷つき、血をひたたらせ、
重い十字架を背負って処刑場へと続く坂道を行くイエス・・。
さらに、死にまで追いやられたイエス・キリストを。

どこか遠い別世界で起きた出来事のように、
自分には関係のない、人ごとのように考えている日本人。

映画やDVDでは、よく取り上げられる描写ですが、
それは神話であり造り物だと・・・。
決して、見た者の心が打ちのめされるような出来事としては映らないのです。

このイエス・キリストの十字架の出来事は、
すべての人々を、赦しへと、救いへと導くものだと言われています。
しかし、多くの人は、自分たちの心は病んでいないと、
病んでいないのだから、救いも赦しも必要ないと・・・。
いや、救いとか赦しと言う言葉の意味すら分かっていないかもしれない。

それどころか、自分の正当性を押し通して、
人それぞれの暮らしや文化の違いを受け入れることが出来ない人が実に多い。

”いやし ”という言葉が、はやり言葉のように使われています。
自分の心が病んでいてこそ”癒されたい”と思うものですが、
どうも、こと日本では別の意味のように使われているようです。
いやしを、元気になるとか、快適さを手にするというような意味に、
取り違えているかのようにさえ聞こえます。
いやしの時代と言われながらも、
決して自分の心が病んでいるとは思っていないのでしょう。
仕組みや状態や状況を変えれば幸せがやって来ると信じています。
根本的に自分の心が病んでいるとは決して考えてはいないはずです。
自らの正当性のみを強調して、
根本的な問題が、客観的に見てどこに在るのか・・と言う考察がないのです。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
すべての人間の心が病んでいることを明らかにした出来事です。
自分の心が病んでいることを知らない、
気付いていない人にとっても、
イエス・キリストの十字架の出来事から、
自分の心が病んでいることを知らされるのです。

自分の正当性を否定されたくない人にとっては、
イエス・キリストの十字架の出来事は受け入れることはできません。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

(旧約聖書・イザヤ書・53章4〜5節・新改訳聖書)

どういうわけか、こと日本人にとっては、ピンとこないようです。
かなりの深手を負っているにもかかわらず・・・。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

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Wrote up on February 28, 2014.