罪について語ることをためらわせるなら
キリスト教の教会へ行こう・・、
初めて、” 教会に行こう ”という意思を固めた人たちには、
” 神に聞こう ”というのではなく、
当然のようにして、” 自分の義を求める ”人の多さが、
まわりからも受け入れられず、
自分は弱くダメな人間なのだと思い込んでいても、
それは、裏返せば、
社会への恐れか、自分のプライドのためにか、
自分の考え方ややり方が正しいと認めて欲しいという望みを持つことが正しいことだと信じている人たちの多さが・・・、
” 教会が、罪について語ることをためらわせている ”としたら。
人は、生まれながらに罪深い性質を負っているのだと・・。
人は、自分の生き方にたいして、
肯定的な言葉や態度や状況を求めるものです。
キリスト教の教会に求めるものであってもそうです。
教会だからこそ、自分の生き方にたいする肯定的な、
はげましの言葉や態度を得られると思って、
期待して、教会にやって来る人は多いものです。
しかし、教会こそ、
罪について、人間の罪について、
つまり、人間の本質・本性について語られるところなのです。
それは、
自分の義が立てられることが救いだと考えている人にたいして、
その人の本性を明らかにすることは、
その人を責めることになりかねないのです。
その人にとって、とてもつらく耐え難いことなのです。
自分にとっての義を求めることが、
自分の義を手にすることが救いだと考えている人にたいして聖書は、
聖書・バイブルは、決してそのようには語らないのです。
聖書は、すべての人は罪を犯していると、
大胆にその責任を問い正してきます。
「すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず・・・。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・新改訳聖書)
多くの人は、
人間性の尊厳を重んじ、
人間の個性の自由な発達と、
個性を発揮することが、
人類の平和と幸福をもたらすものだと、
かたく信じています。
また、それと同時に、
真実なるものへの願望を抱いています。
真実なるものに到達したい・・・と。
しかし現実はどうでしょうか・・・・。
聖書・バイブルが語り指し示すのは、
真実とは、神への服従・・・、
” この世界を造られた神に ” 聞き従う信仰と・・・、
自分自身の恐れとプライドからの解放なのです。
私たち人間は、
この世界を造られた創造主なる神によって造られた神の作品だからです。
何への恐れでしょうか、
何のためのプライドでしょうか・・・、
なぜイエス・キリストは、十字架にかけられ、
死刑となり、葬られ、三日の後に死人のうちから復活したのでしようか。
私たち人間が心の奥底に常に抱いている死への恐怖、
そして、むなしいプライド・・・。
なにものかに、かんじがらめに縛られている私たち人間・・・。
「神である主は、
人に呼びかけ、仰(おお)せられた。
あなたは、どこにいるのか。」
(旧約聖書・創世記・3章9節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 12 September 2010.