クリスチャンであることが珍しく
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クリスチャンであることが珍しく、また少数派の、この日本においては、
世の中には、さまざまなスタイルのキリスト教が存在していることを説明できうる知識を持ち、
情報を得ている人たちも、また少数派であろう。
マザーテレサ、細川ガラシャ、バチカンと言った言葉ぐらいなら知られているだろうが、
キリスト教の基本とは、
どのようなことなのかということを説明できる人も、また非常に少ないはずだ。
聖書・バイブルという書物さえ、
キリスト教とつながりのある書物だとは知らないかもしれない。
さまざまなスタイルの違いを持つキリスト教において、
違いのある中で、同類のすべてが、共有されいるはずの、
唯一共通している教典としての聖書・バイブルについて考えてみれば・・・。
聖書・バイブルを神棚に飾り、開けることもないキリスト教も存在しますが。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、
人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」
(新約聖書・パウロからテモテへの第2の手紙・3章16節・口語訳聖書)
聖書・バイブルは、何を私たちに語りかけているのかと言えば、
聖書・バイブルを、私たちに何を伝えようとしているのかという視点に立って読み解けば、
私たちは、ひとしく罪人だということです。
弱く愚かで迷っている存在なのです。
そら来た、善人を罪に落し入れようとしている・・・・。と言われますが。
「次のように書いてあるとおりです。
・・正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。・・」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新共同訳聖書)
聖書・バイブルが示すのは、
すべての人は罪人だということです。
すべての人は、生まれながらに負っている罪があるのです。
その”生まれながらに負っている罪”が、
それを原罪・ゲンザイと言います。
人の思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
それが、私たちの現実の姿なのです。
「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章19節・新共同訳聖書)
キリスト教は、この考えを前提に成り立っています。
いや、そうではないキリスト教もありますが。
救い主、すなわち神のひとり子、キリストなるイエスが、
この世に生まれたということは、
世界が、神の目から見て堕落していることを表しているのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事こそ、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ・あがないのわざ・という出来事こそが、
私たちを罪から救い出す神の究極の選択と意志なのです。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
あなたは救われるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新共同訳聖書)
しかしながら、この日本においては、
知らされず解き明かされる機会のごくごく少ないテーマなのです。
クリスチャンが少数派に甘んじている原因が、
この当たりにあるのかもしれません。
日本の多くの人たちは、真の神を必要としないのかもしれません。
待っているのは滅びだけです。
北白川 スー
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Wrote up on September 19, 2017.