教会には、神を見失っている人がやって来る
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教会には、神を見失っている人がやって来る?
え!!、キリスト教の教会には、信仰している人が来るのでしょ?、
と思われていることでしょう。
洗礼を受けてクリスチャンになった人はそうですが、
これから語ろうとしていることは、
クリスチャンでない人で教会にやってくる場合のことです。
ときとしてクリスチャンであってもそういうときがあるかもしれません。
教会のトビラを開ける人は、
何かのっぴきならない理由で、身動きが取れなかったり、
どうしてもやらなければならないと思っていることがうまく運ばないときとか・・・。
何か深刻な悩みごとを抱えて、どうにかしたい、そこから抜け出したいとか・・・。
それぞれ事情は異なるでしょうが、
自分の必要が満たされない。
自分にとって重要だと思っていることがうまく運ばない。
自分の望むように、自分の思うようにならない・・・・・。
教会は自分にとって切実だと思っている必要を、
必要を満たしてくれるものと考えてやって来るわけです。
そのような人は、はっきり言って、神を見失っている人と言えます。
正確に言えば、
神の愛に触れられていながらも、
まわりから見ても、神の愛に包まれていると見て取れるにもかかわらず、
神を見失っている人なのです。
・・神と出会った・・とでも言えば、
たいていの人は、変わった人だ、どうにかしていると思うことでしょう。
実際に神の姿を見たわけではないのですが、
その存在を疑うことなどできないほどの、
身近さを感じ取ることができるとでも言えばいいでしょうか。
いつも身近におられて、私を見つめてくださっている方がおられる・・・。
いつも呼びかけ、語りかけてくださっている方がおられる・・・という感覚なのです。
神を見失っている人と、身近に神の存在を感じ取っている人との、
その違いは何でしょうか。
いつも見つめてくださっている方がおられると思えば、
いつも見られていると思えば、
それも高みから、存在感と信頼感に満ちて・・。
それは安心感とでも言えます。
そうなると、わがままなど言えないものです。
自分のことしか考えない見ない人なら、
自分にとって益となることだけを考える人なら、
教会は、困っている人を助けるところだと思い込んでいる人なら、
教会は、自分の気持ちを満たしてくれるものと思ってやってくる人なら。
そこには、自分だけの世界しかありません。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
しかし、常に、いつも、
教会でイエス・キリストの十字架の出来事が説かれ解き明かされていたなら、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがないのわざ)という出来事が、
説かれ解き明かされていたなら、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活という出来事が語られていたなら、
神の怒りの裁きという出来事が語られていたなら、
神は私たちを愛してくださっているからこそ、
ひとり子イエスの命を私たちのために差し出されたという出来事が語られているなら・・・。
そこに神の愛を見いだすのです。
「イエスは、また人々に語ってこう言われた、
『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、
やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。』」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・8章12節・口語訳聖書)
教会は、神の言葉が語られ、それを聞くところであるなら。
教会は、神の教会として、神の所有物として認識されていたなら、
教会の頭・・かしら・・は、キリスト・イエスだと知られていたら、
そのようにして、キリストの言葉が光り輝いているなら、
光を見いだした人たちの集まりへと変えられるのです。
周りが見えず、自分のことしか考えない人は、
イエス・キリストの十字架の出来事など知りません。
ですから、神に聞こうとはせず、自分の考えに従おうとするのです。
十字架が見えないからこそ、
教会は、自分の気持ちを満たしてくれる所としか映らないのでしょう。
常にリアルタイムで、
呼びかけ、語りかけ、導いてくださる方の存在など、見えるわけはありません。
まして、自分の人生に、
喜びと平安を与えてくださる方としてのキリスト・イエスの存在など、
感じ取ることなどできないのです。
「イエスは彼に言われた。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・14章6説・新改訳聖書)
教会とは何でしようか、
教会とは、イエス・キリストの十字架の出来事が、いつも説かれ解き明かされているところであり、
わたしたち人間が、恵みとして、十字架の出来事に感謝し応えるところなのです。
しかしながら現実の日本のキリスト教の教会は、そうではないかもしれません。
十字架の出来事が説かれ解き明かされる機会が極端に少ないのですから。
人生に迷いはつきものです。
しかし、いつも手を差し伸べて導いてくださる方がおられるとしたら、
なんとも心強く安心なことではありませんか。
ただ、キリストの存在に気づいていないだけなのです。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、
だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、
まだ日のあるうちに行わねばならない。
だれも働くことのできない夜が来る。
わたしは、世にいる間、世の光である。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・9章1〜5説・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on September 28, 2016.