救われたと、はっきり理解するとき。
自分は ”救われた”と、はっきり理解するとき。
それは、おどろきと喜びをもって救われたことに感謝するときでもある。
それは簡単には得がたく、なかなか求めにくいものに違いない。
”救い”という言葉にたいする個々の思いの違いがあることも事実です。
経済的な困窮から抜け出したときとか、
命の危険さえ存在した状況からの脱出であったり、
苦しい病気からの回復であったり、
貧しさからの脱出であったり、
人間関係の困難さから、
まわりから取り残されているように感じていた状態から人並になったときとか、
社会から見捨てられた状態から、一般社会と同じ水準になったと思われるときであったり、
そのような例のように、現実的な困窮から抜け出すことが救いだとする考え方と・・・・。
キリスト教の聖典である聖書・バイブルは、
”救われた”という理解を、そのように語っているのでしょうか。
苦しみや災いから抜け出せたことを”救い”と言っているのでしょうか。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
(新約聖書・テモテへのパウロの第1の手紙・2章4節・新共同訳聖書)
聖書・バイブルはこのように語ります。
私たちが経験する苦しみや災いが、たいしたことではないと言っているのではありません。
聖書・バイブルが一貫して語っているのは、
”神の愛の勝利 ”です。
神の愛、すなわち、神のひとり子イエス・キリストが十字架の上で死なれたことによって、
”私たちの罪があがなわれた”という出来事・・・。
私たち人間の罪が・・・・・。
私たちが ”救い”という言葉から思いめぐらすのは、
人間の受けるさまざまな苦しみです。
自分が正しいと思えばこそ苦しまなければならないものです・・。
そこからの救い・・・・。
しかし、聖書は、最終的に勝利するのは、神の愛であると・・・・。
なんとも理解しがたい展開なのです。
神の愛が最後にはすべての人間のために勝利すると。
まさしくこれが ”福音の本質 ”なのです。
私たちが経験する苦しみや災いが、たいしたことではないと言っているのではありません。
「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、
彼らの耳を逆境によって開かれる。」
(旧約聖書・ヨブ記・36章15節・口語訳聖書)
神は悩んでいる人々を、その悩みの中で助けだし、
その苦悩の中で、私たちの耳を開いてくださるのです。
なんともきびしい神の姿勢ではありませんか。
これが、すなわち人間の罪深さと、神の慈愛とのきわだった対照なのです。
イエス・キリストは言っています。
「父よ、彼らをおゆるしください。
彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」
(新約聖書・ルカによる福音書・23章34節・口語訳聖書)
救い出されるとは、迷いの中にあったことをあらわしているわけです。
聖書・バイブルは、
すべての人間は、もともとからして道に迷っていて、
自分が迷っているとは思っていないし、
いつも気付かずに誤った方向に行こうとしていると指摘します。
ですから、
人間が、神と出会うという経験をするのは、
つまり、キリスト教的に言えば、キリストに見いだされるのは、
自分がキリストに見いだされる前に、
”自分がすっかり迷っている ”ことに気付く必要があるのです。
迷っていることに気付いて、はじめて、
大きくステアリングをきることができるのです。
いま来た道を引き返すことも、
新たに、より充実した道を、喜びをもって見いだすこともできるのです。
「 〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。」
(新約聖書・マタイによる福音書・18章11〜13節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 23 December 2008.