すべての人は罪人である
だれひとりの例外もなく、すべての人は、
生まれながらに罪深さという性質を負って生まれてくる。
人は、常に、あらぬ方向を向いて、さ迷い続けているのです。
だから、正しい道を示し導いてくださる方に見出されなくてはならないのです。
「・・・ この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。・・・そして、祝宴を始めた。」
(新約聖書・ルカによる福音書・15章24節・新共同訳聖書)
この有名な聖書の記述は、放蕩息子が回心して親元に帰ってきたシーンです。
まず大方の人は、自分の愚かさに気づかずにいます。
これが普通なのです。
そこで、自分が絶望的な状態にあることを気づかせるもの、
自分の偽りのプライドとむなしい自信とを砕かれせる出来事こそ、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事なのです。
しかし、”十字架の死による贖い”・・という事柄さえ、
私たちは簡単には理解することができずにいます。
謙虚な気持ちになって、
すなおに受け入れることすらできないのです。
大きな過ちを犯しているは自分自身なのだと理解するまで、
イエス・キリストの十字架の出来事は、
”つまずき ”でさえあるのです。
プライドがそれを許さないのです。
そのような自分に死ななければ、
イエス・キリストに見出されることはないのです。
自分の生き方や、考え方や、やり方にたいして、
その通りでまちがってはいないと、
肯定的なはげましや、言葉を期待して、
教会にやってくる人もいます。
その人に、あなたは罪深い、罪人だ、とでも言おうものなら、
きっとその人は傷つき、二度と教会にはやってこないかもしれません。
だからと言って、安易に同情とはげましの言葉を与えることは、
回心へと、神の道へとその人の心を向けさせることは、
さらに遠いものになってしまうことでしょう。
今まで、自分が頼っていたものが、
実は、取るに足らないものなのだと理解できたとき、
初めて、イエス・キリストに見出される道へのトビラが開き始めるのかもしれません。
メシア・救い主イエス・キリストがこの世界に来られたということは、
私たちは、ひとりの例外もなく罪深い存在であることをあらわしているのですから。
北白川 スー
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Wrote up: 05 June 2010.