異文化の中にこそ日本人を回心させる何かがある


 よく言われることですが、

 仕事のためや留学などよって海外に住まいを移さなければならなくなった人が、

 現地でクリスチャンになるケースが多々あります。

 異文化の中にいた方がクリスチャンになりやすいということでしょうか。

 キリスト教は世界標準に違いありません。

 日本の国内だけに通用するキリスト教の信仰などないわけです。

 キリストの福音はまぎれもなく、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。


 「 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。

 わたしたちはこう考えている。

 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、

 すべての人が死んだのである。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・口語訳聖書)


 イエス・キリストがすべての人の罪のために死んでくださった以上、

 すべての人も死んだことになるからです。

 イエス・キリストは、私たちの罪にたいする神の裁きを、

 私たちに代わって、

 ご自身が自ら、身代わりとなって受けてくださったのですから。


 「 罪が支払う報酬は死です。

 しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章23節・新共同訳聖書)


 聖書・バイブルは、

 すべての人間には、生まれながらに負っている罪があることを前提として語られています。

 新約聖書で語られていることがらのほとんどの背景に、

 ・・人間の原罪・・、

 すなわち、生まれながらに負っている罪を前提としているわけです。

 創造主なる神にたいする被造物としての罪・・・。

 キリストが、つまり救世主が、この世界に生まれ来たということは、

 この世界が神の目から見て堕落していることをあらわしているわけです。

 全世界の、すべての人間が逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、

 キリスト、すなわちメシア・救い主がこの世界に来る必要などなかったからです。


 「 わたしは福音を恥としない。

 福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、

 信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)


 どうも日本では、このあたりが不鮮明なのかもしれません。

 この世界を造られた創造主なる神と、

 被造物としての人間という関係において語られるもの、

 それがキリスト教のメッセージなのですから。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事こそ、

 キリスト教の教会が語るべき、

 もっとも基本的なことがらなのです。

 つまり世界標準なのです。

 日本のキリスト教は、まぎれもなく外国から入ってきたものです。

 日本で作られたものではありません。

 しかし、その世界標準を、

 取り入れないキリスト教があったとしたら。

 それが日本のキリスト教だとしたら・・・・・。

 だから、

 日本人が、異文化の中にいたほうがクリスチャンになりやすい・・・・、

 ・・・ということも起きてくるのではないかと。

 日本のキリスト教が、人口比にして、いまだに1パーセントにしか満たない原因が、

 日本のキリスト教が、実は世界標準でないとしたら・・・・・。

 あながち、そうではないと言い切れないかもしれません。

 キリストの愛が世界標準なら、

 わたしたちを駆り立てないわけがありません。

 でも日本のキリスト教はローカルだとしたら。

 キリスト流ではなく日本流だとしたら。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on 21 September 2011.