不満や不安や怒りや・・・・
キリストの教会で、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)・・・というおどろくべき出来事が解き明かされるとき、
人々は、おどろきと喜びとをもって、神の前に静まざるをえなくなります。
ただ、神の前に沈黙することしか残されていないことに気づくのです。
つまり、自分はなんと愚かで罪深い存在であるかということを思い知らされるのです。
つまり、イエス・キリストの十字架の出来事という、
神の啓示に出会って、その真理性に気づいたとき、
自分の理性が沈黙させられる経験をするわけです・・・。
難しく言えば、
神の啓示としてのキリストの福音の真理にたいして、
私たち人間は関わることをゆるさないからです。
それは、神の究極の選択であり、究極の態度決定だからです。
私たち人間の普通は・・・、
自分のもっている物差し、
自分が自ら作り上げている物差しによって、
すべてを見て、すべてを聞いて、
自分の物差しで判断します。
私たち人間の不満や怒りや不安というものは、
それらすべては、
自分の思い描く水準に遠く及ばないものだから、
自分の物差しを満たさないものだから・・・、
不満や不安や怒りなどとなって表にあらわれてくるのです。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
この世界を造られた神の、私たちへの愛のあらわれです。
私たちの思いをはるかに超えたものなのです。
「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、
なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、
ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、
一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、
ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17〜19節・新改訳聖書)
私たち人間の、なにげない日常の暮らしの中の、
思いであれ、言葉であれ、行為や行動であれ、
それらはすべて、私たち人間の本性的な、
生まれながらに負っている罪深さという性質によって、
支配され、影響を受けているのです。
生まれながらの罪深さという性質が、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
そうあればこそ、
この世界を造られた神は、
私たち人間をも造られた父なる神は、
私たち人間にたいして豊かなあわれみを示してくださるのです。
それは、イエス・キリストの十字架の出来事にあらわされています。
罪深さの中から救い出そうと・・・・・。
神のひとり子イエスの命を、
私たち人間の、つまり神の作品としての人間を救うために、
私たちの罪を贖うためにささげられたのです。
神のひとり子イエス・キリストが、
十字架刑による死にまで従われたのは、
すべて私たち、神の被造物としての人間のためなのです。
なぜ私たちは命を受け、生きているのでしょうか。
この世界を造られた創造主なる神が、
私たちにいのちを与えられた目的と理由とはいったい何でしょうか。
作品は作者に栄光をかえすために創造されたことを忘れないでください。
私たち人間は、神の作品です。
神の作品が、作者に背いたとしたら・・・・。
陶芸家なら不出来な作品を打ち壊し土に戻すことをしますが・・・、
創造主なる神は、愛ある方です。
そのようなことはなさいません。
北白川 スー
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Wrote up: 15 July 2010.