それを決めるのは、私たち自身です



私たちの暮らしというものは、
当の本人にとっては深刻なものかもしれませんが、
ささいなことに、人間的なものに振り回される場合が多いものです・・・。

人を惑わしている日常のひとこまに、
気をうばわれ振り回されているときは、
「神による証しと啓示」という出来事は、
私たちにとって、どこか遠いところの出来事に終わってしまいます。

“神による証しと啓示”と聞いて、日本人はどのように思うでしょうか。

何のことだか・・・・・。
まず、聞いたことはないでしょう。
私たちの生活に馴染みのないものですから。
まったく関係のない事柄であるはずです。

多くの日本人は、そのように思っているはずです。
日本の街々に、多くのキリスト教の教会が建っていても、
私たちの生活からほど遠い存在として目に映っているはずです。

クリスチャンであろうがなかろうが、
家庭に地域に職場に、日常の生活に振り回されるとき、
社会的な問題に関心が集まっているときでも、

神による証しと啓示という出来事が、
イエス・キリストの十字架の出来事が、
よそごとで終わるなら、福音は福音でなくなります。
私たちの日常と福音とは密接な関係にあるのです。
しかし、そのように理解されていません。

イエスという人間が十字架にかかり、
罪人として処刑されたという出来事が・・・。

救い主、キリストなるイエスが私たちのところに来られたこと、
そして十字架にかかり、罪人として処刑され、
葬られ、三日目ののちによみがえられた出来事が、
自分たちとは関係のない、
どこか遠いところのよそごとのようにとらえるなら。

人は、キリストの十字架の方向に向いてはおらず、
その十字架の輝きすら消しかねない存在なのです・・。

時代はどうであれ、どのようなときであっても、
キリストの福音は、信じるすべての人にとって、
救いを得させる神の力なのです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

私たちのすべての根本的なところに、
福音は決定的に力を持っているのです。

福音すなわち、神による証しと啓示という出来事が、
説かれ解き明かされなくては、
私たちは知ることすらできないのは確かです。

教会とは、福音が説かれ解き明かされるところなのです。
あわただしく問題の多い社会ですが、
決して、社会的な役割を持った、一つの施設ではありません。

クリスチャンですら、福音の内容と意味とを理解している人は少ないのが現実です。
教会が、福音を解き明かしていない証拠かもしれません。

私たちが混乱と不安の中で生き続けるのか、
それとも、平安のうちに生きるのか・・・。

それを決めるのは、私たち自身です。

福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
人間の生に根本的に影響を持つからです。


北白川 スー

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Wrote up on May 27, 2015.