キリスト教は宗教ではないと、
クリスチャンには、キリスト教は宗教ではないとする感想があります。
なぜかといえば、聖書的な価値観が、
この世界を造られた創造主なる神との深い関係・・・・。
その神と、神のひとり子イエス・キリストへ信頼を置くことを意味しているからです。
その人の人生の上で大きな位置を占めるからです。
人生のすべてのものの土台になるものなのです。
人生は、クリスチャン信仰という土台に支えられるものだからです。
もちろん、それは、
決して、個人の自由や幸せよりも、
キリスト教の教会の利益の方が優先していて、重要であるとするものではありません。
信仰というものが、教会の活動や奉仕などの行為行動を強要するものではないのです。
あくまでキリストへの信頼というものが人生を支えるものなのです。
信仰は、消極的なネガティブなものではありません。
いま流行りのマニフェストなのです。
私生活においても、起業や商売やビジネスにおいても、
自分が生き、宣言するものなのです。
ですから、神を信じる信仰は、
人生において希望を与えるものなのです。
では、どこで、その、この世界を造られた神の存在や、
キリスト・イエスを知ることができるのかと言えば、
それこそが、神のひとり子イエス・キリストが、
私たちの罪の代価を支払うために、
十字架の上で死なれたという出来事によって知ることができるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)
キリスト教は ” 罪 ・ 罪 ”と言って嫌いだという人が多いものですが、
人間というものは、自分の手で、
自分の知恵や力によって幸せや豊かさを手にいれるものだと、
そのように努力を傾けるものなのだと・・・・・・と、いうのではなく。
人間の本性的な、生まれながらに負っている罪深さが、
幸せや豊かさを手に入れることを妨げているのです。
ですから、自分を罪ある者だと認めることから始めなければ、
何事も始まらないとするのが聖書なのです。
それを指し示しているのがイエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。
聖書は、自分の知恵や力で救いを勝ち得ることは出来ないと語ります。
イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることによって、
神からの恵みとして、プレゼントとして救いが与えられると教えます。
イエス・キリストを信じる信仰によってなのです。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、
あなたは救われる。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章9節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 16 August 2009.