十字架の出来事が解き明かされてこそ



イエス・キリストの十字架の出来事が解き明かされることのない日本のキリスト教です。
イエス・キリストの十字架の出来事が解き明かされてこそ、
すべての人間の弱さ愚かさが明らかとなるのです。
また再生への道も明らかとなります。

「 だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新改訳聖書)

キリストの十字架の出来事を解き明かさないで、
また語らないで、
人間的な事柄を何事も人間的に解釈、解き明かそうとするなら・・・。

的を外していることも、
失敗し続けていることにも気付かずにいる人間にたいして、
気付かせるのが、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

すべての人のためにキリストは、
その命を捧げられたのです。
キリストは、私たちに代わって死んだと聖書は語っています。
なぜキリストが死ななければならなかったのでしょうか。

私たち人間が本性的に、
生まれたときから罪を負っているということなのですが、
生まれながらに負っている罪深い性質が、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、
神にたいして罪を犯し続けているのです。
しかし、日本人の多くは、そのようには考えません。
人間はもともと善なる存在として生まれてきますが、
社会が社会の悪が人を悪くするのだと、
人間というものは、
そんなに悪いものではないと考えているのです。
ですから過失にたいしては、
再教育というチャンスを与えることによって正すことができると、
そのように信じています。
肉体的な苦痛を与えて罪を償わせるという考えは日本にはなじまないのです。

日本では人の道というものを重んじます。
「・・道」と言う文字のついた文化が数多く存在しています。
言い方を変えれば、立場立場で真理はたくさんあるのです。
真理は一つではないのです。

聖書的な言い方をすれば、
人間の生まれながらに持っている罪深さは、
何らかの偶像としての形をとってあらわれてきます。
それが「・・道」なのです。 自分こそは義なるものだと。
自分には非はないと。

神のひとり子イエス・キリストが、
すべての人に代わって十字架刑に死んだということは、
すべての人の罪をその身に負い、
神によって罰せられたということです。
私たちに代わって・・・・。
十字架の出来事は、神との和解の出来事と言えます。
私たちの罪深さというものの原因は、
最初の人間アダムの、
神への背きの罪が、その起源となっているわけです。

「 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章19節・新共同訳聖書)

ひとりの不従順とは、アダムの神への背きを意味します。
ひとりの従順とは、キリストの十字架による死を意味しています。

私たち人間の本性的な罪深さというものを認めなければ、
なにごとも本来的な、
被造物、神の作品としての道は見えてはきません。

日本のキリスト教が、
キリストの十字架を解き明かさないで、
何事においても、
人間的な解釈を、世俗的な解き明かしをするなら・・・・。
信仰は、キリストの十字架の上に立っているとは言えないのです。


北白川 スー

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Wrote up on July 26, 2013.