クリスチャンの結婚



関心を持ち、クリスチャン自身が苦悩し直面している問題として・・・。
クリスチャンの結婚について、
ネットに書き始めてから10年が過ぎました。
依然として、解き明かされる機会の少ないテーマなのです。
クリスチャンが所属している教会の責任が問われるものです。

日本の人口のわずか1パーセントにも満たないキリスト教信者が、
結婚相手を見つけることの難しさというものを良く耳にします。

その1パーセントに満たない人たちの中で、適齢期をむかえた青年たちが、
結婚相手に出会う機会というものは、
その数字に匹敵するくらい僅かなものなのです。

そのなかで、信仰を持っている者どうしの結婚なら何も問題はおこらないだろうが・・・。
いえいえ、そうとも言えない場合もあります。
クリスチャンであっても、
世俗的なくびきを引きずり、自由を得たとは言い難いからです。

「しかし、今は、律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」

(新約聖書・・ローマの信徒への手紙・3章21節・新改訳聖書)

クリスチャンが結婚する場合、
片方が信者でない場合の多くは、
色々とやっかいな問題が起きてくるのが普通ではないでしょうか。
クリスチャンとノンクリスチャンとでは、根本的に価値観が異なります。
ものの見方、考え方が180度も違うのですから。
向いている方向が異なる者どうしの結婚ということになれば、
何かと問題が起きて来ても当然と言えるわけです。

日本では、結婚とは「家」と「家」との縁組みという家族制度の要素が大きく、
そのためにも、神前による固めの盃と、
両家の一族のあいそろった披露宴は欠かせないものです。

親戚一同、一族あい揃って顔見せということになります。
だから結婚式というものは、
新たなメンバーを一族一家に迎え組み入れるためのセレモニーなのです。

だから相手の階級や階層、家柄、財産や教育というものまでが取りざたされるわけであり、
世間的評価というものが大きな問題であり、
分相応であることが重要であり、
または新たな一族の飛躍のためにより上位の血縁を獲得するという意味も大きな要素でもあるのです。

視点を変えれば、
日本の結婚観というものは、
同じであることを求めるのです。
異質な要素を受け入れることを認めようとはしない、
閉鎖的なものであり、
一家一族という血統や血脈や血盟というものの要素が勝っている共同体意識が強いからなのです。
先祖から受け継いでいる土地や地位、
営業や職業や人脈までも継承することが結婚の条件なのだから。

日本の結婚式は、神の前でということではなく、
人の前で、言うなれば人前結婚式と言えなくもないのです。
神事や仏式やチャペルで祭事として式を挙げても、
形としては神仏の前でということですが、
一番大事なのは披露宴であって、
一家一族、親類縁者の前で、お披露目をし、契約するわけです。

互いの縁者が揃っての顔見せ式というものは、
当の新郎新婦はかやの外とでも言ってもよいくらいです。
そして序列が大事とされ、誰を上座に据えるのかでひともんちゃくすることが多いのです。
ときとして当の新郎新婦には直接関係のない
政界の先生方や取引関係者まで列席する披露宴は珍しくはない。
そこでは、すでに新郎新婦たちの負うべき務め、
これから担うべき役割まで、外にたいして明らかにされていきます。

一方、信仰を持つ者どうしの結婚ということになれば、
・・神と神の教会の前での契約・・ですから、
お互い共通の主、「主」なる神の前での契約ですから、
基本的には、当の二人だけの問題なのです。
だから非常に簡素なものとなります。

欧米のようにキリスト教のモラルに依存した社会構造を持った国では、
権力の継承という意味の血脈による共同体の家族制度は存在します。
一般社会においても家族という存在はありますが、
人間は、おのおのひとりであって、
家族の中でも、それぞれ自己主張して生きていくことを良しとされているのです。

男女の結びつきについて旧約聖書は、次のように語っています。
神が、地の土からアダムを創造されたとき、神は言われた。

「主なる神は言われた。
・・人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。・・
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、
人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。
人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、
自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

(旧約聖書・創世記・2章18〜24節・新共同訳聖書)

以上が男女創造のてんまつです。
・・人が、ひとりでいるのは良くない。
わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。・・
聖書は、結婚とは家系の継承ではなく、
男は、その父母から離れ妻と結びあい、ふたりは一体となると。
新たな家族の創造であると明確に歌っています。

この原則が信仰を持つ者どうしなら、何の問題とは、障害とはならないでしょうが、
家系・血族の継承を重んずる日本の婚姻という形態においては、
大いに障害となり問題とならざるを得ないのです。

家系の継承というものは、祭事にも色濃く反映されますので、
宗教的な確執も必ず起きてくるのは避けられないことでしょう。

クリスチャンになり、この世的な因習から解放された者が、
結婚により再びそのくびきの下に入り、
思考と行動を束縛されることは大きな問題なのです。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、しっかり立って、再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい。」

(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章1節・新改訳聖書)

キリスト者となり、キリストによる自由を勝ち得た者が、
結婚によって再びこの世的な縄目に捕らわれることがあってはならないのです。

キリスト教の教会は、聖書・バイブルが言うところの、
結婚について説き、解き明かさなければならない責務を負っています。
しかし、解き明かされる機会は、ごくごく少なく、
苦悩し続けているクリスチャンには、気を休める場所は遠い・・・。

キリストの自由とは、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事によって、
大きく重い負い目から解き放たれたことを意味します。


北白川 スー

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Wrote up on February 06, 2016.