信仰は個人的なものではない



私たちのキリスト教の信仰というものは、
個人的なものとして捉えられているのが現実です。
信仰を持とうとしたきっかけは・・・、
信仰が呼び起こされた原因は・・・。
やはり個人的な理由によるでしょう。
暮らしの中で起きた具体的な問題が原因となって信仰を持ったはずです。
信仰を持つことが切実だったかもしれません。

では聖書・バイブルは、どのように語っているのでしょうか。

キリスト教と言えば、イエス・キリストです。
旧約聖書・新約聖書、全66巻からなる聖書・バイブルが語っているのは、
神と契約の関係に入った神の民、
アブラハム・モーセ・ダビデ・そしてイエス・キリストの歴史です。
神のイスラエルとの契約の歴史そのものです。
アブラハムからイエスまで、その全てが無関係ではありません。
すべてがつながっています。
すなわちイスラエルの歴史なのです。

暮らしに悩み苦しんだあげくに教会にたどり着いたのに、
どうしてイスラエルと関係があるの・・・。

イエス・キリストの歴史は、
またイエス・キリストの十字架の出来事は、
先ず、何よりもイスラエルのために起きたものなのです。
イエス・キリストの歴史は、
神とイスラエルとの契約の歴史そのものなのですから。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
まず何よりも、イスラエルにたいする契約の完結の出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事によって、
イスラエルにたいする約束は完成したのです。

では、どうして、イスラエルと私たちは関係があるのでしょうか。

イスラエルと結ばれた契約は、
すべての人たちの仲保者としてのイエス・キリスト、
”仲保者”・ちゅうほしゃ・とはキリスト教の言葉ですが。
すべての人の、神と人との仲介者としてのイエス・キリスト。

神と私たちと間に立って、間を取り持つ方、
執り成してくださる方であるところの、
神と和解するための道を開いてくださった方・イエス・キリストにおいて、
イスラエルにたいする約束は完成したのです。

神がイエス・キリストにおいて、
イスラエルのイエス・キリストにおいて、
イスラエルの中でイスラエルのために起きた、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざによって、
この世をご自身と和解させられたことによって・・・・。

仲介者としてのイエス・キリストは、
すべての人に向けられたイエス・キリストの十字架のわざによって、
人々が罪を悔い改め、神と和解する道を開かれたのです。

イエス・キリストの十字架の出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだ出来事であり、
私たちを悔い改めへと、信仰へと呼び出す出来事なのです。

ですから、私たちは、イエス・キリストの十字架の出来事を、
すべての人に向けられた、
神の恵みと平和への約束の、契約の言葉として、
聞き、理解し、従い、言い表さなければなりません。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。
それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、
キリストが死んでくださったので、
召された者たちが、
既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

(新約聖書・へブル人への手紙・9章15節・新共同訳聖書)

決してキリスト教の信仰というものは、個人的なものではないのです。
決して、人間の必要や欲求を満たすためのものでもないのです。
すべての人たちに向けられた神のメッセージに応える行為なのですから。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
・・正しい者は信仰によって生きる・・と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on May 15, 2017.