キリストが再び来られるとき


 イエス・キリストの再臨を、キリストに再び出会えるという、

 イエス・キリストに会えることを待ち望むワクワクとした信仰というものが・・・、

 まったく希薄なのが日本の教会の雰囲気なのです。

 クリスチャンでさえ死を恐れている方が多いのが日本の教会かもしれない。

 歳をかさね肉体が朽ち果てても、永遠の命が約束されているとしたら、

 どれほどの喜びでしょうか。

 つまり、私たち人間は ” 死では終わらない ”のです。

 つまり、私たちは ”中間の途上の世界 ”に生きているということなのです。


 イエスの”罪の赦し”のメッセージと、その方が ”復活を通して死に勝たれた ”というメッセージ・・・を。

 人がそのメッセージを受け取ったとき、立つべき基盤を見い出すことになります。

 そしてその基盤に立ちかつ従っていくとき、

 その人は、人生の支えを得ることになります。


 しかし、

 常に、礼拝の説教においてキリスト教信仰の根本的なこと本質的なこと基準となることがメッセージされていない場合・・・、

 キリストが、再び来られることへの喜びがメッセージされない場合・・・、

 教会の外側にいて、キリストが再び来られるというメッセージが聞こえない場合・・、

 教会の外にある人たちは、教会にたいして、どのような期待をまた望みを持つことになるのでしょうか。

 教会は、この世の、つまり世俗的な、世間一般の、

 社会的な、また経済的な望みや期待や正義を、

 教会は与えてくれるところだと勘違いしないでしょうか。

 世俗的な欲求を成就してくれるところが教会だと・・・・。

 自分の望みをかなえてくれるところがキリスト教の教会だと・・・・。


 聖書・バイブルは何と語っているのでしょうか。

 キリストがこの世界をさばかれること、

 そしてキリストを信じるクリスチャンたちの望みは、希望は、

 無秩序なこの世界にあるではなく、天国・キングタム・ヘブン・

 神の支配のもとにある世界にあるのだと・・・。


 この世界において、”信仰に生きる ”とは何を意味しているのでしょうか・・・。

 ブームだとかトレンドだとか、ただ消費することをあおるマスメディア・・・。

 物資的な豊かさが心の豊かさにつながると、

 物質的な豊かさへの熱望が環境を破壊し私たちを苦境に追いつめている現実・・、

 すでに、この自然、この地球は死に瀕しているではないか・・・。

 すぐそこに、差し迫った事態が近づいているではないか。

 今まさに、私たち人間は、どのように生きるべきなのかを、

 私たちを取り巻く自然は教えているはずなのだ・・・・。

 この自然を、創造主なる神が素晴らしいものとして創造された自然を、

 その自然を壊しているのは、私たち人間なのです。


 「神の怒りは、

 不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、

 天から啓示される。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章18節・口語訳聖書)


 真理をはばんでいる人々の、この世界を造られた神を神と思わない不敬虔と不正にたいして、

 神の怒りが天から啓示されているとしたら。

 イエス・キリストは、私たち人間の不義と不正のために、

 その身を投げだし、死して、私たちの不義をあがなわれたのです。

 その命を代価として、創造主なる神との和解をなされたのです。

 この和解の出来事を受け入れ、

 そのイエス・キリストを信じる信仰によって、

 キリストが再び来られるとき、永遠の命をいただくという希望に生きることができるのです。


 「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」

   (新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・15章20節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 05 June 2008.