信仰のスタートライン
 キリスト教の信仰について考えるとき、
 キリスト教の信仰は、どこにスタートラインがあるのか・・・。
 その信仰というものが、何に根ざして、どこから始まるのか・・。
 聖書は明確に示しています。
 「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
 「 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
 わたしたち救われる者には神の力です。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章18節・新共同訳聖書)
 信仰は・・つまりキリストへの信頼はキリストに聞くことから始まると語っているのです。
 キリストの言葉とは、十字架の言葉とはどのようなことなのでしょうか・・・。
 それは、イエス・キリストの十字架の出来事を指し示しています。
 十字架の出来事の内容と意味のことです。
 イエス・キリストへの信仰とは、信頼とは、
 まさしく、この出来事の上に立っています。
 もしも、その内容と意味とを理解しないまま礼拝に集まるとしますと、
 それは、ただの形式的な礼拝でしかすぎないでしょう。
 それ以外に目的をもって教会に来るとすれば、
 その信仰を疑ってみてもおかしくはないでしょう。
 キリストは、つまり、救い主であるところの神のひとり子イエスは、
 人としてこの世界に来られたということは、
 イエス・キリストは、だれひとりの例外もなくすべての人を救うためにこの世界に来られたということなのです。
 私たちは、救われなければならない存在だということを示してします。
 では何から救われなければならないのでしょうか。
 私は正しいから苦難を味わっていて、だから救われなければならないのでしょうか、
 自分の義が保てないから、教会なら自分の義にたいして肯定的であるはずだとか・・・。
 このような姿勢で、教会にあらぬ要求を突きつける人も多くいます。
 それは自己中心的な思いであり、決して信仰ではありません。
 イエス・キリストが、救い主がこの世界に来られたということは、
 私たちは、ひとりの例外もなく罪深く、
 その罪深さから救われることも逃げることもできない状態にあることをあらわしているのです。
 むずかしく言えば、
 人間の本性を明らかにしなければ、
 生まれながらに持っている性質を明らかにしなければ、
 神のひとり子イエスが救い主としてこの世界に人として来られたという意味すら理解できないでしょう。
 なにひとつ罪を犯していない神のひとり子イエス・キリストがすべての人の罪をその身に負い、
 罪人として、十字架にかけられ、死してすべての人の罪を贖った(あがなった)という出来事・・・・・。
 この出来事こそ、まさしく、神との和解の出来事なのです。
 キリスト教の信仰というものは、
 この出来事に基準を標準を置かなければならないのです。
 私たちは色々な出会いからキリスト教を知ることになり、
 信仰を持つことになるのですが、
 どこからスタートするのか、スタートラインをどこに置くのか、
 それを明確にしておかなければ、その信仰は不安定なものになります。
 イエス・キリストの十字架の出来事に信仰の基礎を置くのが、
 キリスト教のもっもと標準的なものなのです。
 私たちは救われなければなりません。
 私たち人間は、この世界を造られた神に背きました。
 そして、やがて来る怒りのとき、神によって裁かれます。
 その裁きから救われなければなりません。
 その裁きから救われるために、
 私たちに代わって死んでくださったイエス・キリストに信頼を置かなければならないのです。
 私たちは罪深いゆえにさ迷い歩いているからです。
 私たちをリードしガイドしてくださる方・・・、
 その方こそイエス・キリストなのです。
 その方に聞き従う人生こそ、信仰生活そのものなのです。
北白川 スー
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Wrote up: 25 May 2010.