イエス・キリストの十字架の出来事を通して


 キリスト教の基本とするもの。

 キリスト教の信仰の根本と言っていいものとして、

 イエス・キリストの十字架の出来事を聞いて、

 その出来事の内容と意味とに触発されて信仰を持つようになることは、

 ごくまれなのです。

 めったになくて、珍しいことなのです。

 多くの人は、自分自身にかかわる何らかの理由や出来事から、

 教会にかかわりを持つようになったり、

 クリスチャンと知り合いになったりして、

 キリスト教の信仰へのトビラを開いたはずてす。

 日々の暮らしの中で、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を聞いて、

 その出来事にふれて、何らかの刺激を受けて、

 その気になることは珍しいことなのです。

 この日本の、私たちの日常には、

 イエス・キリストの十字架の出来事を聞く機会はほとんどありません。


 聖書・バイブルの記述によれば、

 「それから、イエスは言われた。

 全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 (新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新共同訳聖書)

 と、弟子たちにイエス・キリストは命じています。 


 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。

 すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、

 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、

 召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

 神の愚かさは人よりも賢く、

 神の弱さは人よりも強いからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章23〜25節・新共同訳聖書)


 十字架は処刑の道具です。

 イエス・キリストが罪人として十字架にかけられ死刑となった・・・、

 その出来事が、なぜ福音なのか。

 神のひとり子イエスは、私たちのすべての人間の罪をその身に負い処刑されたのです。

 私たち人間の、ひとりひとりが、

 罪深い存在であることを認識したときにこそ、

 十字架の出来事は、

 その人にとって福音になりえるのです。

 自分を信じて生きていくことがもっとも正しいとするなら、

 イエス・キリストの十字架は意味を失ってしまいます。

 私もあなたも、十字架にかけられる定めなのです。

 この世界を造られた神にたいする背きの罪のために。

 だれひとりの例外もなく、私たちは神によって裁かれます。

 その裁きから救ってくださるのがイエス・キリスト・・・。

 すでにその裁きを十字架の死によって受けてくださったのですから。


 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、

 わたしたち救われる者には神の力です。」

 (新約聖書・コリントの信徒への手紙・1章18節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 13 February 2011.