
神への債務の返済

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 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
 自分にも適用され、
 自分にも当てはまり、
 そのような扱いを受けることを受け入れた者は、
 つまり、神の怒りの裁きから救われた者は・・・・。
 先ず、キリストの福音に身を置くということであり、
 自分の持っている価値観の転換であり、
 今までの価値観の連続的な更新ではなく、
 今までの価値観の連続に生きるのではなく、
 まったく新しくされた価値観の下で生きることであるわけです。
 「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新共同訳聖書)
 クリスチャンとは、
 イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事が適用された者ということなのです。
 さて、現実は、
 日本人は生まれると同時に、
 二つの異なった世界の債務を負う者となります。
 ”創造主なる神への債務と、
 日本の社会に生きることになった債務とを。”
 私たち被造物としての人間は、
 生まれた時から自動的に、
 私たちを創造された創造主なる神にたいして、
 返さなければならない大きな債務を負っているということなのです。
 また、日本人は、生まれたと同時に、自動的にとも言える、
 大きな債務を受け継ぐことになります。
 日本の社会と言う世間にたいしての債務であり、
 日本の社会で生きていくために、
 世間体という、常に付きまとう債務なのです。
 世間体という魔物に、
 私たち日本人は常に苦しめられています。
 しかし人は、それを負債だとは認識してはいません。
 創造主なる神にたいする債務であっても同じです。
 日本人は、生まれると同時に返済しなければならない債務を負うのです。
 神にたいする負債であって返済しなければならないのです。
 キリスト教の教会にやむなく足を踏み入れることになった日本人は、
 世間体にたいする債務を返済できずに困り果て、
 やむなく教会にその救済を求めてやってきたのです。
 世間体にたいする債務とは、
 「恩」であり「義理」というものなのです。
 日本という共同体で生きる以上、
 恩を受け、義理を返さなければなりません。
 当然にして払うべき債務の返済なのです。
 義理を欠くことは、
 日本という共同体で生きていくことへの反旗であり、
 共同体の秩序の維持に反することなのです。
 聖書・バイブルでは、
 私たちが負っている神への債務が、
 つまり私たちの性質であるわけですが、
 その債務が、思いとなり言葉となり行為や行動となって、
 自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
 それが現実の人間の姿そのものなのです。
 神と和解するということは、
 キリストの福音を受け入れ、
 キリストの福音に身を置くということは、
 自分の持っている価値観の転換であり、
 今までの価値観の更新ではなく、
 今までの価値観の延長線上に生きることではないのです。
 「 しかし、今は、律法とは別に、
 しかも律法と預言者によってあかしされて、
 神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
 それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 すべての人は、罪を犯したので、
 神からの栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、
 キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
 価なしに義と認められるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章21〜24節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on  October 02 , 2012.