ヤベツの祈り・もしできることなら、この苦しみが自分から過ぎ去るように
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自分がかかわっているビジネスや仕事や共同体などの領域が、
専門とする担当や範囲が、
今まで手掛けていなかった領域や範囲での研究や作業ができるように能力を広げたいとか・・・。
進学かもしれないし、新たなビジネスへの展開かもしれない。
新たな教会を開拓しようとしたときかもしれない。
さらに広がるようにと、前向きに取り組みだしたとき・・。
さらなる展開を願い求め始めたとき・・。
今に留まるのではなく、
今に固定するのではなく前進したいと願ったとき・・・。
「またヤベツがイスラエルの神に、
『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、
御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、
苦しみを遠ざけてください』
と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。」
(旧約聖書・歴代誌・第1・4章10節・新共同訳聖書)
新たな展開というものには、
期待されることと同時に責任も増し加わるものです。
つねに、ひとつ上の仕事を求められるものです。
何ごとであれ、
自分のやる仕事に責任を覚えて、
それに立ち向かって行くことになるわけです。
それにともなうリスクすら、
自分で引き受ける用意があることを求められ、
明らかにしなければならなくなるものです。
しかし、実際は、すべてが順調に進むわけではないでしょう。
期待が増し、責任が増し加わるとき・・・・。
それが初めて手掛ける分野であったり作業であったり・・・。
新たな範囲や領域が増えることによって、
心にかかるプレッシャーは重みを増すものです。
勢いや気力が衰えたり弱くなったりするものです。
だから・・・祈らされる・・・のです。
心にかかるプレッシャーが重みを増したとき、
もしできることなら、この時間が自分から過ぎ去るようにと・・。
イエス・キリストも祈られました。
「少し進んで行って地面にひれ伏し、
できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
こう言われた。
『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。
この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、
御心に適うことが行われますように。』」
(新約聖書・マルコによる福音書・14章35〜36節・新共同訳聖書)
責任の増大というものは、
誰にたいしての責任なのかを明らかにさせられるものなのです。
多くの場合、人は、事がうまく運ばないとき・・・、
うまくいかなくなると、
責任を自分で負わないで、
まわりの人や、
自分をとりまく状況や環境や社会のせいにすることが多々あります。
つまり責任を、自分自身ではなく、自分以外に転嫁してしまうのです。
領域が増えたことを、期待されていることに、
求められていることに、
気づくことがなければ、祈り求めることなどありえません。
自分に何が求められているのか正確に見出さなければ、
自分がどこへ行こうとしているのか知らなければ、
的外れにも、見当違いのところへ流されもします。
自分にたいする求めを正確に見出したときこそ祈らされるのです。
神のひとり子イエス・キリストは、
人類の罪のあがないのために、
父なる神から課せられた十字架の受難と死という・・・。
しかし、イエスですら・・・。
もし、できることなら、
この時間が自分から過ぎ去るようにと祈られたのです。
ただし、
ご自身の願うことではなく、父なる神の意志のままになるようにと・・・。
自分の願いではなく、神の意志のままに・・・・。
正直言って、私たちにとっては、
なかなかこのように祈ることはできません。
苦しみたくはありませんから・・・。
災いはご面です・・・・。
忘れてはいませんか、
それは自己中心的な思考だということを・・・・。
苦しみたくないのが、なぜ、いけないのか・・・と反論されそうです。
私たちは忘れています。
この世界を造られた父なる神によって、私たちは造られたことを。
ですから、
私たち人間は、目的をもって造られたことを忘れてはならないのです。
主の御手が共にあり、
主の守りがあってこその増し加わる責任なのです。
私たちには見えませんが、
父なる神は、常に私たちと共におられます。
私たち人間は、創造主なる父なる神の作品なのですから。
主のゆるしの中での責任の増加であることを忘れてはならないでしょう。
ヤベツの祈りは、決して自分だけの利益を願い求める祈りではない・・・・。
決して、自分のやりたいように生きるための祈りではない・・・。
「主」と真正面に向き合った、血の汗がしたたる祈りに違いない。
北白川 スー
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Wrote up on January 17, 2016.