 
的外れ、見当はずれに気づかない
 
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「そのとき、イエスは言われた、
 「父よ、彼らをおゆるしください。
 彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
 人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」
 (新約聖書・ルカによる福音書・23章34節・口語訳聖書)
 
 キリスト教の信仰にとって、
 もっとも本質的な事柄であるにもかかわらず、
 なぜか明にされることのごくごく少ないテーマです。
 
 聖書・バイブルが、さし示している内容は。
 一人の例外もなく、
 ”罪を負って生まれた”人間にたいする神の救済の意志と、
 その実現への啓示なのです。
 
 特別な人に向けて、特定の人に向けて、
 聖書・バイブルは語っているのではありません。
 
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、すなわち、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事、
 それが神の啓示の出来事なのです。
 
 罪とは、私たちの現実が、人間が、
 神の求められる、
 要求されている意志から外れていることを表しています。
 
 私たちの思いや言葉、行為や行動といったものが、
 的外れ、見当はずれだということなのです。
 だから救われなければならない。
 
 しかし、日本人の感覚からすれば理解しがたいことです。
 自分は正しい間違ってはいない・・・、
 そうでないと生きている意味などないのですから。
 正しいからこそ救われるべきだと・・・・・。
 
 「では、どうなのか。
 わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
 全くありません。
 既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、
 罪の下にあるのです。
 次のように書いてあるとおりです。
 「正しい者はいない。一人もいない。
 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
 善を行う者はいない。
 ただの一人もいない。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9~12節・新共同訳聖書)
 
 イエス・キリストの十字架の出来事とは、
 いったい何をさし示しているのでしょうか。
 
 自分の思いや言葉、行為行動と言ったものが、
 的外れであることを認識し、
 思い知らさせる出来事こそがキリストの十字架の出来事なのです。
 
 「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。
 善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
 キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
 神はわたしたちに対する愛を示されました。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章7~8節・新共同訳聖書)
 
 日本人の現実の姿は、
 自分の思いや言葉や、行為行動といったものが、
 間違っていて、見当はずれで、的から外れていると思いたくない・・・・。
 いや、気づきもしない・・・・。
 それが正直なところでしょう。
 
 人間が罪深い存在であり、
 その状態からのがれられないでいるからです。
 人間の持っている罪深さは、
 その性質が、本性的に持っている罪深さを認めない原因でもあるのですから。
 
 日本人に向かって、
 あなたは罪人だとでも言えば、
 一歩引いて、あなたのやっていることは見当違いですよとでも言えば、
 顔色を変えて反論されるのが落ちですから。
 北白川 スー
 
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Wrote up on March 26, 2017.