語られるのは神である
教会の違いをこえて入ってくる情報で、おどろかされることは、
教会で、当然にして語られているはずのキリストの福音が、
つまり、”罪人の救い ”の出来事について・・・、
語られていないのではないかという疑いなのです。
もしも、福音が語られていないのなら・・・、
福音を語らないのは、教会のメッセージを聞く者にとって失礼にあたるのです。
毎日曜日の礼拝で講壇から語られる説教や、
祈りの集まりや、聖書の研究会などにおいて語られるものについて・・・。
その場で、キリストの福音が、
ひとりの人がすべての人のために死なれたという出来事が、
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事が語られないのなら、
罪人のためにご自身をあがないの代価とされた、
イエス・キリストの十字架の出来事が説き証されないとしたら、
聞く者の側からすれば、自分の都合ばかりを考えたとても非礼な話しなのです。
30分もあれば福音は語れるはずです。
30分もあれば、イエスの十字架の出来事の説き証しは語れるはずなのです。
ときとしてメッセンジャーは ”答 ”を要求します。
しかし、メッセンジャーの予定していた答を求めるのではなく、
どのように受けとめられようとも語り続けなければならないのです。
メッセージを聞いた人が、そのメッセージがどういうつもりで語られたかを、
聞いた人が、どのように解釈しょうが、見方を縛られべきではないです。
メッセンジャーが意図したものや、
聞き手が、聞きたいと望んでいる内容のものに限られるものではないからです。
なぜかと言えば、
メッセンジャーの、その言葉を通して ”語られるのは神 ”だからなのです。
聞き手に、十二分に想像力を働かさせることこそメッセンジャーの力量なのです。
メッセンジャーの意図はこうだからと、決めつけるものではないのです。
答を期待し、決めつけようとするなら、
それこそ神ならぬ神を演じているのではないでしょうか。
イエスは言われた。
「聞く耳のある者は聞きなさい」と・・・・。
(新約聖書・マルコによる福音書・4章9節)
神の言葉を聞くということは、
語られる神が、どのような方であり、
その言葉を聞く私たちは、どのような存在なのかを、
はっきりと知らなければならないのです。
語られるのは神であり、
神の声を聞くのは私たちなのですから。
聖書・バイブルの言葉を通して、神の言葉を聞くことによって、
私たちは神を、神の実体を知るのです。
イエス・キリストの十字架の出来事を通して神を知るのです。
私たちの人生において、神を知るという輝かしいことは他にありません。
仮にも、キリストの教会が、教会の頭であるキリストをあらわさないとしたら・・・。
どうして神の栄光を受けられはずがあるでしょうか。
私たち日本人にとって、”恵み”とは、いったい何でしょうか。
わずかな安住の地が望みなのか。
一国一城のあるじが最終の目的なのか。
それとも・・・・・。
安っぽい恵みと高価な恵みがあるとしたら、
あなたなら、どちらを選び取りますか。
「イエズス(イエス)を死者のうちから復活させたかたの『霊』が、
あなたがたのうちに宿っているなら、
キリストを死者のうちから復活させたかたは、
あなたがたの内におられるその『霊』によって、
死ぬべき体をも生かしてくださるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・8章11節・フランシスコ会訳聖書)
イエス・キリストは、死ぬべきからだを生かしてくださるのです。
教会は、私たちにあらわされる神の栄光を明らかにしなければならないのです。
それが役目なのですから。
北白川 スー
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Wrote up: 14 July 2008.