キリスト教のABCを何も知らない人が
キリスト教のABCを何も知らない人が、
教会からもれ出てくるものから人間的なものを嗅ぎ取るならば、
人は、教会へ歩を進めることはないだろう。
それどころか近づきもしないだろう。
それが、人間的なものではなく、
教会から少しずつもれ出てくる不思議なメッセージを感じとるならば、
教会からもれ出てくる不思議な物語を、すぐには受け入れようとはしないが、
頭の片すみに覚えおくだけの冷静さは持ち合わせているものなのだ。
だがしかし、教会でその不思議な奇跡の物語が、
ひとりの人がすべての人のために死んだという。
ひとりの人がすべての人の罪を、その命を捨ててまで償ったという。
イエス・キリストの十字架の死による贖い”あがないというわざ ”が語られていてこその話しであり、
教会が、その物語を聞こうとしている人たちにたいして分け与えたいと願っている”神の賜物 ”を持っているということでなければならないのです。
キリスト教のABCを何も知らない人に、キリスト教の何たるかを知ってもらうには、
このように、すべてが聖書に基づいていることが、まず前提となるでしょう。
日本では、教会に初めてやって来る人は、大抵の場合、自分の正義を教会に求めようとする傾向にありますが、
本来、教会は、”神の啓示 ”が語られるところであり、
この世界を造られた父なる神ご自身が、
すべての神々にまさるご自分の栄光を、
その究極の決断と行為によって、
みずからが明らかになさるところなのです。
だからこそ、その神の啓示を聞いた者が、
それに応えて、
この世界を造られた神を礼拝し、あがめ、誉めたたえるところなのです。
教会は、父なる神の究極の選択と決断と行為とが語られるところなのです。
だから人は、おどろきと喜びをもって、
心の底から、こんなすばらしいものがあったのかと感心するのです。
そのすばらしいものこそ、福音と呼ばれるものであり、
イエス・キリストの十字架の死による贖い・あがないの出来事なのです。
自分の正義など、キリストに比べれば取るに足らないものなのです。
それどころか、自分の愚かさ、弱さが明らかとなり、
キリストの前でひざまづくことになるでしょう。
きっと、赦しと救いを願い求めることになるはずです。
きっと、キリスト・イエスにむかって、
自らの心を注ぎだすことになるはずです。
それは、決して自らをはずかしめることではなく、
そうではなく、喜びの瞬間そのものなのです。
「わが魂はもだしてただ神をまつ。
(私のたましいは黙って、ただ神に向かって待ち望む)
わが救いは神から来る。
神こそわが岩、わが救い、わが高きやぐらである。
わたしはいたく動かされることはない。
(私は決して動揺などしない・ゆるがされない)
わが魂はもだしてただ神をまつ。
わが望みは神から来るからである。
わが救いとわが誉れは神にある。
神はわが力の岩、わが避け所である。
民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。
そのみ前にあなたの心を注ぎ出せ。
神はわれらの避け所である。」
(旧約聖書・詩篇62編ダビデの賛歌・1〜9節・抜粋・口語訳聖書)
北白川 スー
関連記事・「キリストへのプロローグ」
表紙にもどります。
エッセイの部屋・バックナンバーへもどります。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up: 15 May 2008.