キリスト教はクラシックか


 キリスト教の信仰はクラシックなのでしょうか。

 日本の共同社会の中で、

 自分はクリスチャンですと明かせば、

 クリスチャンであることをカミング・アウトすれば、

 クリスチャンであることが、

 なにか古臭いクラシックなもののように見られます。

 キリスト教の信仰は、

 いつしかクラシックになってしまったのでしょうか。

 本来、本質的にも、

 キリスト教の信仰は革新的であったはずです。


 「 だれでもキリストにあるならば、

 その人は新しく造られた者である。

 古いものは過ぎ去った、

 見よ、すべてが新しくなったのである。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・口語訳聖書)


 信仰によってキリストと結ばれる人はだれでも、

 新しく創造された者なのです。

 古い体質にこだわるのではなく、

 新しいものに創り変えられることなのです。

 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じるのです。

 なぜなら、

 聖書の言葉は、常に新しく、真実を語り、情熱的だからです。

 感動すら覚える言葉で満たされているからです。

 なぜなら、聖書・バイブルの言葉は、

 全編にわたって創造と希望を語っているからです。

 新しい創造であって、今にとどまるものではありません。

 しかし、そうだからこそ、受け入れることを拒む人も出てきます。

 聖書は、聖書の言葉を聞いた人に、

 根本的に、その人の生き方に方向転換を求めるからです。

 だから聖書を開くことをも拒む人が出てきます。

 キリスト教の信仰を成り立たせている聖書の言葉は、

 人間をとりまくあらゆる分野に影響を与える言葉で満たされているからです。

 日本のキリスト教がクラシックになっているのなら、

 それは、まぎれもなく、

 信仰による創造も、明日への希望もなく、

 信仰に聖書の言葉が生かされていない証しなのです。

 社会にたいして何の影響力を持っていない証しなのです。

 なぜなら、キリストの倫理は、

 人々を世俗にたいして力強くかつはげしい緊張状態に立たせるからです。

 ”その信仰が ”生ぬるいものであるなら、

 その信仰を疑ってみてもよいかもしれません。


 「わたしはあなたの行いを知っている。

 あなたは、冷たくもなく熱くもない。

 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。」

 (新約聖書・黙示録・3章15節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 16 December 2011.