私たちは新約の時代に生きている



人の必要を満たし欲求を実現することが、
信仰することの目的なら、
その信仰は、ご利益信仰そのものです。

キリスト教は、決してご利益信仰ではありません。

私たちは新約の時代に生きています。
新しい契約の下に生きているのです。
すなわち、イエス・キリストの歴史の中に生きているのです。
キリストなる神が、私たちの中に住み、行動し、語られているのです。

新約の時代の信仰とは、
イエス・キリストに、聞き従うことのなのです。
私たちの必要は、二次的三次的なのです。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

(新約聖書・マタイによる福音書・6章33節・新共同訳聖書)

新訳旧訳合わせて66巻からなる聖書が語っているのは。

神は、アブラハムと共に約束を結ばれました。
そして、モーセを通して人々に、神の意志は広く知らされます。
さらに、取りかわされた約束は、
ダビデにたいして確かな証拠として示されます。
そして、イエス・キリストにおいて、
私たちに見える聞こえる形によって新しい契約となったのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

神の約束とは、
・・神の怒りの裁き・・からの救いなのです。
神の怒りを、私たちに代わって、
その身に受けてくださったイエス・キリスト。
それが福音・良き知らせの中身なのです。

私たちは救われなければなりません。
神の怒りの裁きから。

「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)

私たちは裁かれなけれなければならないほど堕落しているのです。
私たちの、思いに、言葉に、行為や行動は、
常に、見当違い、的外れなものとなって、
神にたいして、人にたいして、自分にたいして罪を犯し続けているのです。

救い主イエス・キリストが、この世界に生まれ来たということは、
この世界は、神の目から見て、
逃げることも救われることもできないほどに堕落し、
悪に染まっていることを表しています。
しかし、多くの人は、気づいていないだけなのです。

人の必要や欲求は、社会の問題、矛盾や欠陥から生まれてきます。
キリスト教の信仰は、社会の問題を、矛盾や欠陥を、
人間が生まれながらに負っている性質、
人間の罪深さに、その原因があると考えます。


北白川 スー

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Wrote up on May 14, 2017.