若者たちの教祖は、自分を信じて生きろと言う


 人は常に悩みながら生きていると言っていいかもしれない。

 自分への不満が、不満足が自分の思いを満たしているのも事実なのです・。

 人間とは何か、なんのために生きているのか、

 生きるということは、

 生きているということはどういうことなのか・・・・。

 そんな大げさなことではなく、

 ただ今日を充実して生きていきたいだけなのかもしれない。

 だから、今日を充実して生きるために・・・、

 自分の持てる時間や経験を活かして・・・。

 自分を活かしきっていく行き方をさがし求めているのかもしれない・・・

 若者たちの教祖は ”自分を信じて ”生きろと言う。

 それがもっとも良い方法なのだと。

 自分自身にこそ希望があるのだと、

 それこそが自己実現につながるのだと・・・・。

 ひびきの好い、それが美しいもののように聞こえますが・・。

 その自分にこそ問題が隠されているとしたら。

 キリスト教では、その自分に大きな問題が隠されていると大胆に説くのです。

 大切なことは見えないものなのだと、

 ありのままの自分というものは見えないものなのだと。

 自分のいやなところは見えないのだと。

 その本当の自分自身の姿を見せるものこそ、

 イエス・キリストが罪人として十字架にはりつけになっている姿そのものなのです。

 私たちに代わって・・・・罪人として罰せられたイエス。

 私たち人間が、生まれながらに持っている ”かたくなな心 ”は、

 人間が本来的に持っている罪深さは、

 多くの場合、自分たちの罪深さを認めようとはしないのです。

 それどころか自分自身を美しく飾り立てたりもします。

 自分を信じて生きることこそもっとも美しいことなのだと。


 「すべての人は罪を犯したため、

 神の栄光を受けられなくなっており、」 

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・口語訳聖書)


 聖書は、正しい者は誰れひとりとしていないと説きます。

 すべての人は罪の中にあるのです。

 救い主キリストがこの世界に生まれ来たということは、

 この世界が堕落していることをあらわしているのです。

 逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、

 キリスト・イエスがこの世界に来る必要などないのですから。

 自分は罪人なのだと認めるところから希望は生まれてくるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 02 January 2010.