信仰からキリストを除いてしまったなら
信仰から、イエス・キリストを除いてしまえば、そこには何も残らない。
十字架を取り除いてしまったなら、キリスト教ではなくなってしまう。
しかし私たち人間には、キリストのない、十字架のない、教会すらないかもしれないキリスト教のように見える信仰が存在します。
本来、聖書・バイブルが説き明かしているのは、
”神からの一方的な恵み”という形でキリスト教信仰というものが存在するものなのですが・・・・、
それが人間の側からのアプローチである場合なら、キリストも十字架も必要がなくなってしまうものなのです。
クリスチャンであっても、「イエス・キリストの十字架の死によるあがない」、
「神の十字架のわざによる救い」という事柄に立っていないのなら、
その事柄を自分の人生の支えとしないのなら、
イエス・キリストを、自分の信仰のよりどころとしていない信仰というものが有り得るのです。
イエス・キリストの十字架による死と葬りと復活という出来事が、
「神の側の事柄」であるがゆえに、
「神の正義の事柄」であるがゆえに、
他に対立するものがないほどに、
私たちは、神をあがめ尊び、従おうとするものなのです。
キリスト教信仰というものは、
神の一方的な恵みにたいする具体的な応答なのです。
信仰する者の心の作用や力ではなく、決して精神性ではないのです。
自分の気持ちがどうであるかではなく、
キリストへの全面的な信頼なのです。
それもキリストの言葉・聖書の言葉によって裏付けられた信頼なのです。
聖書・バイブルは語ります・・・。
神の正義は人間によって破られました。
神にたいして不正が行われたのです。
その結果、人間は労苦して生きなければならなくなりました。
当然にして、神の怒りは人間に向けられることになります。
しかし同時に、神はあわれみを示されたのです。
神の怒りを、神のひとり子イエスの上に下すことによって、
私たち人間の身代わりとして、
私たちの罪の代価は支払われたのです。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
神の正義と、神のあわれみを示すものなのです。
決して私たちの努力や行為によってなされたのではありません。
救いというものも、私たちの努力や行為によって得られるものではないのです。
ただイエス・キリストの十字架の出来事を信じる者にたいして、
神は罪過の告発をしないというあわれみを示されたのです。
罪を罪としないと、罪に定めず、処罰すべきとは見なさないと言われたのです。
まさしく神の一方的な恵みなのです。
どうも日本人の信仰は、
正義は自分にあり、だから信仰する・・・というふうに見えなくもありません。
神は私たちの罪を裁かれる方であるにもかかわらず・・・・。
基準は私たちにはありません。
神こそ絶対的な正義なのですから。
それを証明するものこそイエス・キリストの十字架の出来事の他になにものでもありません。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖・あがないのゆえに、
価なしに義と認められるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙3章23〜24節・新改訳)
私たちが日々犯してしまうさまざまな罪でさえ、
神は忍耐をもって見のがしてこられただけなのです。
キリスト・イエスを信じる者には、
イエスは罪人をゆるされたように、私たちの罪をゆるしてくださいます。
人が義と認められるのは、
人が神の前で正しい者とされるのは、
修行だとか、人の模範となるような善行の積み重ねだとか、
行いによるのではなく、ただ信仰によるのです。
しかし、
自分は、罪深い罪人なのだという自覚がなければ、
罪に定めず処罰にあたらないと言われても、
自分のこととして喜びをもって受け入れることなど、
どこか遠いよその話しなのです。
自分は罪人であると理解できてこそ、
イエスの十字架を自分のこととして、受け入れられるのですから。
クリスチャンであろうがなかろうが、すべての人は、神の前では罪人なのです。
人間の本性が理解できてこそ、信仰というものも理解できるのです。
人はひとりとしてひとりでは生きていけません、神によって支えられているのです。
北白川 スー
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Wrote up: 11 April 2008.