クリスチャンであることのほうが珍しく



日本という社会では、クリスチャンであることのほうが珍しく、
「 教会に行っている 」とか「 信仰を持っている 」とでも言えば、
「 そちらの人」 と、不思議で変わった人のように見て取られます。

聖書・バイブルは、次のように語っています。
「私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
信じるすべての人にとって、
救いを得させる神の力です。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新改訳聖書)

福音の出来事は、
すなわち、イエス・キリストが十字架に死んだという出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事であり、
すべての人がその対象であり、
神の啓示の出来事として、
すべての人にたいして、その内容と意味とが明らかにされたものなのです。
福音は、教会の説教において、
すべての人に対して説かれ解き明かされるものだからです。

キリスト教は、2000年前にイスラエルに始まり、
ギリシャに、そしてローマへと広がって行きました。

世界に冠たる大ローマ帝国であっても、
あの気高いローマ人でさえ、
異国の宗教を受け入れ、自らの魂のよりどころにしたのです。
そしてその後、キリスト教は全世界へと広がって行きました。

この歴史的な事実は、何を物語っているのかと言えば、
キリストの福音というものは、
特定の人たちだけのものではなく、
肌の色や言葉や習慣をこえて、
広くすべての人たちにたいして語られたものであるということを表しているのです。

しかし日本では、その事実が、クリスチャンであってもノンクリスチャンであっても、
あまりにも知られていないところに、
いや、知らされていないところに、
キリストの福音が日本に広まらない原因があるのではないかとさえ思わされるのです。

キリスト教が広まらない原因の一つが、
キリスト教の信仰というものにたいして、
日本の社会一般が共通して持っている、
教会というものが、婦人や子どもたちに、
心の弱い人たちにたいしてそのトビラを開いているものだという、
誤解にもとづいた認識が、
一般の人たちの中に支配的に存在しているということです。

教会というものへの見方も、
人恋しさから行くところであったり、
人間関係に疲れて果ててしまった人たちの集まる、
小さなコミュニティのように考えられていて、
自分には、必要のないところだと思っているはずです。

忙しい働き盛りの壮年男性ともなれば、
宗教というものには、うさん臭さをイメージに重ねますし、
消極的なものとして捕らえています。

酒やタバコ、風俗などは御法度であって、
息の詰まるような禁止事項に縛られていたのでは、
仕事などできやしない・・・。
宗教に縛られては仕事にならないと・・・・。

いずれにせよ、教会であっても、キリストへの信仰であっても、
「 信仰と世俗 」とは互いに対立するものであり、
まったく別の世界、異となる次元のものだと考えているわけです。

しかし、バイブル・聖書の記述は、
単なる形式的なものでもなく、
道徳的・倫理的な教えとして片づけているものでもなく、
それは、非常に具体的なものであり日常的なものなのです。

現実的な状況のもとで、
今も生きて働いておられる生ける神・イエス・キリストによって与えられる、
神は「人間のために働いておられる」のだという信仰のもとで、
この世界をまったく「新しく捕らえ直す」ことのできるものなのです。

自分のまわりであれ、地域社会や国家や世界であれ、
あらゆる状況、あらゆる出来事であれ、
リアルに、現実的に、
・・・それらいっさいを知っておられる神・・・と、
共に生きていくことによって与えられる世界なのです。

教会の中で神を礼拝するときであっても、
家庭の団らんの中にあっても、
職場で同僚とともに働いていても、
学園で勉学に励んでいても、
世間的に恥とされるようなものから、
一般的にもっともだと思われている価値観から、
地域社会での世間体から、職場でのモラルから・・・・、

それらからくる圧力や強制とは異なる、
それらに捕らわれない自由な、
自由な時間と空間と精神性を与えられるのです。

それは何かと言えば、
人となられてこの世界に来られた神のひとり子イエス・キリストと向き合いながら、
助け人としての「聖霊」に助けられ、
父なる神に聞き従っていく信仰のもとに、生きて行けるというものなのです。

イエス・キリストが私たちと同じ肉体となり、
私たちと同じ血となって、
私たちのために、私たちに代わって、
十字架の上で、
父なる神の怒りの下に砕かれたがゆえに、
つまり、私たちのすべてを知っておられるということによって、
地域社会であれ職場であれ学園であれ、教会の中であっても、
自分にたいする評価や批評であっても、
さまざまな利害関係にあっても、
それらはすべて二義的、副次的なものになり、
それらを超えて、
他にもっと根本的で重要なことがあることが分かるのです。

私たちがかかわる一切の出来事は、
すべて神の前での出来事であり、
神のゆるしなくして起きないのですから。

キリストへの信仰というものは、
私たちを縛っているあらゆる「縄目から」解きはなつもの、
教会の中だけではなく、
実社会の中にあっても自由と喜びを与えるものなのです。

イエスは言われました。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、知性を尽くして、
あなたの神である『主』を愛せよ。」
「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。」
「そうすれば、いのちを得ます。」

(新訳聖書・ルカによる福音書・10章27〜28節・新改訳聖書)

わたしがあなたがたを愛したように、
あなたも隣り人を愛しなさい・・・・・・。

現代日本に生きる私たちにとって、
神を知ることと、
隣人を愛することは、
なにものよりもまして難しく欠けているものなのです。


北白川 スー

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Wrote up on August 02, 2016.