福音とは何ですか
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福音とは、その人の生き方を肯定するもの・・・ですか。
いいえ、そうではありません。
その逆なのです。
「 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)
イエス・キリストの福音を恥としない・・
・・・と、聖書・バイブルは語ります。
人間の本性的な弱さ愚かさを明らかにしなければ、
生まれながらに負っている弱さ愚かさを明らかにしなければ。
救いの可能性は見えてこないのです。
生き方に問題があることを明らかにすることによって、
新たな生き方が明らかになる。
未来に将来に展望が開けてくるのです。
過去に、今に留まるものではありません。
人間は常にさまざまな問題を抱えて生きています。
不安、悩み、苦しみ、痛み、思いわずらい、とらわれ・・・・などなど。
福音は、それらの根源を原因を明らかにしているのです。
その原因からの解放をさし示しているのです。
人間の、思いや言葉や行為や行動などに決定的に影響を与えているものを明らかにするのが福音なのです。
なぜ、イエス・キリストは十字架のかけられ死刑となったのでしょうか。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
このイエス・キリストの十字架の出来事こそ福音そのものなのです。
しかし、キリストとか十字架とか、
そのようなものとは関係がない、知らない・・・。
そのようなものは必要としないから、
それよりも、私の悩みを聞いてほして、
私の生き方について肯定的な言葉がほしい・・・・。
自分の思う通りになってほしい・・・・・と。
人は、多くの場合、このように思っています。
しかし、
人間の本性的な性質を明らかにしなければ、
そこからの救いはありません。
もっとも大きな問題は、
人は、大切なことが見えていない・・・ということなのです。
人は、自分と向き合うことを避けるものなのです。
自分のいやなところは見たくはありません。
しかし、その逆に、
聖書・バイブルの言葉は、
その人の本当の姿を映し出す鏡なのです。
心の深いところを映し出す鏡なのです。
その鏡こそ、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
創造主なる神への罪から救うため、
キリスト・イエスが、
すべての人間に代わって、その罪を身に負い、
十字架にかかって死なれた・・・、
神との和解の出来事なのです。
被造物・神の作品として造られた人間が、
創造主なる神の背いて罪を犯したことによって、
罪の中を歩まなければならなくなってしまった人間たち。
神に背いて以来・・・、
すべての人間は、生まれながらに罪深い性質を負って生まれてくることになったのです。
その性質が、思いとなって言葉となって行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
それが現実の私たちの姿そのものなのです。
私たち人間が、苦境の中から、
どのような方法をとったとしても、
逃げることも救われることもできない状態でなかったならば、
救い主・メシア・キリストがこの世界に生まれ来る必要などないのですから。
「 一人(アダム)の罪によって、
その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17節・新共同訳聖書)
福音とは何ですか。
自分の思う通りになることが福音ですか。
仮にも、キリスト教が、
イエス・キリストの十字架の出来事の本質についての根拠を語らず取り扱わないという立場を取るとすれば、
教会が人間社会の中に立っている意味すら無にすることになり、
キリスト教でなくなります。
私は罪など犯していないと言うならば、
キリストへの信仰も信仰でなくなってしまうのです。
北白川 スー
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Wrote up on September 07 , 2012.