福音と律法



キリスト教の教会やのクリスチャンが、
熱心に社会的な問題に取り組んでいる姿をよく見かけます。
原発再稼働反対であったり憲法九条であったり・・・と。

イエス・キリストは、
聖書は、
本質的に人間は弱く愚かな存在だと語っているのです。
すべての人間は、
生まれながらに罪深い性質を負って生まれて来るのです。
クリスチャンであっても例外ではありません。
すべての人間は罪人なのです。

そうでなければ、
イエス・キリストの、
十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
意味を失ってしまいます。

私たち人間が営んでいるあらゆるものは、
常に罪深さの結果であるということです。

それが近代的で文化的な営みであっても例外ではありません。

聖書は、
社会の欠陥は、
人間の欠陥にその原因があると言っているのです。

ですから、
キリスト教の教会は、
社会的な問題に取り組む前に、
キリストの福音を語り、
福音を解き明かすべきなのです。

人間というものは本質的に、
福音が語られない所では、
語られないほどに福音から離れて行くものなのです。

キリスト・イエスの十字架の出来事が解き明かされずに、
キリスト教の信仰が語られ描かれるとすれば、
それは本質とは異なった違ったものとして認識されてしまうのです。

「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、
この熱心さは、
正しい認識に基づくものではありません。
なぜなら、
神の義を知らず、
自分の義を求めようとして、
神の義に従わなかったからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章2〜3節・新共同訳聖書)

キリストの福音が解き明かされるところでは、
私たちはすべてにおいて無力です。
救いはキリストから来るものだからです。
私たちが救いを作りだすものではないからです。

キリストの十字架が説き明かされてこそ、
解き明かされてこそ、
人間の弱さ愚かさが明らかになるのです。


北白川 スー

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Wrote up on September 04, 2013.