東日本大震災・神の啓示


 私たちの人生には、実にさまざまな事が起きます。

 2011年3月11日の東日本大震災もそうです。

 私たち人間は、常にある思いを心に秘めていなければなりません。

 人間の可能性や高ぶりや自信といったようなものではなく、

 謙虚さ、へりくだった心をです。

 神をおそれうやまう心をです。

 この世界を造られた創造主なる神と、

 その作品、その被造物としての人間という関係において。

 この世界を造られた神が、

 私たちの神だということ。

 私たちの人間としての存在のための神であるということ。

 この世界を造られた神が、私たちの神であり、

 そのような神として、

 自分の血を分けた者・子にたいするような。

 あわれみと、自分を低くする姿勢・・。

 そのような態度や姿勢でもって、

 私たち人間を受け入れてくださる。

 それがイエス・キリストであり、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事なのです。

 なぜ神がその身を低くしてまで、

 私たち人間にたいしてあわれみを示されるのかと言えば。

 私たち人間は、創造主なる神にたいして大きな負債をもっているからです。

 それを「原罪・ゲンザイ」と言います。

 最初の人間、アダムの出来事にその起源があるわけです。

 アダムとイブが神に背いて禁断の果実を取って食べたという、

 エデンの園の出来事に始まり、

 作品は作者に誉れを栄光を帰さなければならない存在であるにもかかわらず、

 私たち人間は、常に神に背き続けています。

 私たちの思いとなって、言葉となって、態度や行為行動となって、

 神にたいして、人にたいして、自分にたいして、

 罪を犯し続けているのです。

 私たち人間は神を知ってはいます。

 神の永遠の力や神の性質というものは、

 私たちは心の内で認め、おそれうやまってはいます。

 しかし、知ってはいながら、

 その愚かな心は、神に背き続けているのです。

 神を見ようとはしないのです。

 神の存在を見させないようにしているのは、

 外からの影響でも外からの働きかけでもなく、

 自らの心の中にあるものなのです。

 自分の非を認めることをしないで自らを合理化してしまうのです。

 そのような人間にたいして、

 この世界を造られた神は、大きく深い愛を行動をもって示されたのです。

 本来なら、創造主にたいして背いた作品は、

 裁きが待ってます。

 不出来な作品は壊してしまうものなのですが。

 陶芸家が不出来な作品は叩き壊すように・・。

 書き損じた字は消すように。

 しかし神は、私たち人間を受け入れてくださったのです。

 それが、

 神のひとり子イエスを、人間として、この世界に生まれさせ、

 その死において、

 創造主の意思に従わせられたのです。

 そして、死人の内からの復活において、

 ただ裁きで終わるのではなく、

 本来の作品として、創造主へ栄光を帰せる存在として、

 再びその地位や品格といったものを与えられたのです。

 それが、ひとりの人がすべて人のために死んだという出来事、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

 私たち人間と同じになられた神のひとり子イエスが、

 私たちに代わって、神の怒りの裁きを受け止めてくださったのです。

 その出来事を信じることによって、

 また受け入れることによって、

 神の怒りの裁きから救われるのです。

 再び神の作品として、神の子としての身分が復活するのです。


 「 では、どう言っていますか。

 『みことばはあなたの近くにある。

 あなたの口にあり、あなたの心にある。』

 これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、

 あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、

 あなたは救われるからです。

 人は心に信じて義と認められ、

 口で告白して救われるのです。

 聖書はこう言っています。

 『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章8〜11節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 08 April 2011.