あなたは次のような人間である



ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事。

つまり、キリストの福音に捕えられた存在だということなのです。

神の義の決断と態度の決定とに捕えられた人間だということです。

そして、その決断を受け入れ承認し、
身をゆだね、聞き従うことが、
人間にたいする救いとして許されている・・・・。

決して、なぐさめとか、はげましとか、
人間の義を与えるものではない。
決して、あなたの生き方を肯定するものではないのです。
いや、むしろ否定するものなのです。
つまり、罪をあばかれるのです。
光の下に照らし出され、明らかにされるのです。

神のひとり子イエスの死と葬りと復活において備えられた、
神の怒りの裁きからの救いという・・・・。

これがキリスト教が言わんとするテーマなのです。
しかし、この日本では語られる機会は、
ことごとく少ないのです。

キリストの十字架の出来事は、
私たちにたいする、
神の怒りを啓示するものこそ福音そのものなのです。

神はその怒りを、
私たちに代えて、
ご自身のひとり子イエスの上に下された・・・。
それがキリストの十字架による贖罪の出来事なのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜18節・新共同訳聖書)

しかし実際のところ、
この日本では、
神の救いの招きを・・・・、
知ることも感じることも出来ない・・・。
語られる機会のことごとく少ないのがキリストの福音だからです。

神の福音の対象であるにもかかわらず。

私たちの罪にたいする神の裁きに、
身をゆだねることが、
私たちの救いのためにそなえられ許されているにもかかわらず。


北白川 スー

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Wrote up on February 20, 2013.