福音すなわち
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福音とは、神の啓示の出来事です。
すなわち、神のひとり子イエス・キリストの十字架の出来事、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
しかし、日本のキリスト教の教会は、
福音が説かれ解き明かされる機会の少ない教会なのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事とは、
すべての人間の本性的な、生まれながらに負っている性質を、
人間の弱さ愚かさを明らかにするものです。
そうでなければ、神の裁きからの救いはありません。
救いを、神の怒りの裁きからの救いとして教えない教会もあります。
私たちの本性的な性質が、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、
神にたいして罪を犯し続けているのです。
それが、私たちの現実の姿なのです。
私たちは様々に思いわずらい苦しみ悩み傷つきます。
その原因は、私たち人間にあります。
人間が作り出した社会の構造にも問題があるでしょう。
人間自身にも問題があるでしょう。
福音はその根本的な原因を明らかにします。
福音は私たちの本当の姿を明らかにします。
私たちの弱さ愚かさを明らかにしてこそ、
私たちの本当の姿が明らかになってこそ、
救いというものも明らかになるわけです。
人間が正しいのですか、神の義はどうなりますか。
キリスト教の信仰とは、福音を伝えられ、聞いた者が、
福音を受け入れ認めることによって、
キリストへの信仰として持つものなのです。
キリスト教に信仰するのではなく、
福音によらなければ、キリストへの信仰は生まれません。
「福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
・・正しい者は信仰によって生きる・・と書いてあるとおりです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17節・新共同訳聖書)
日本の教会では、
社会的弱者の救済という働きを重要な働きとして位置付けている教会は多いものです。
しかし、社会的な弱者に手を、支援することが信仰ではありません。
社会的な困窮の中を生きている人を援護することがキリスト教の信仰ではないのです。
それが聖書の言うところの救いなのでしょうか。
たとえそれが大切な働きであっても、
日本という現代社会の中で、
社会的な役割を与えられた存在がキリスト教の教会ではありません。
クリスチャンに与えらけれた使命は、
福音を宣べ伝えることではありませんか。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を・・・・。
「なぜなら、わたしたちは、
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章28節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on March 25, 2015.