 
人間関係にギクシャクして
 
- 
- 
家庭にあっては夫や妻とのあいだに。
 職場の同僚とのあいだに。友人とのあいだに。
 人間関係がしっくり行っていないとき・・・・・。
 
 私たちが日々の暮らしの中で、
 身体の疲れよりもまして心に疲れを覚えるときなのです。
 それは、自分をとりまく人間関係がギクシャクしているときではないでしょうか。
 
 広く知られている、
 ・・なんじ、隣人を愛せよ・・という聖書の言葉があります。
 
 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」
 (新約聖書・マタイによる福音書・19章19節・口語訳聖書)
 「右の頬を打つ者には、左の頬を向けなさい。
 告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」
 (新約聖書・マタイによる福音書5章39〜40節参照)
 
 と、相手を、どのような場合であっても許すようにと・・・。
 そう言われても、こんなにも気持ちが傷つけられているのに、
 許せるわけなどないでしょ・・・・。
 たとえ許したとしても、絶対、受け入れられないのだから・・・。
 頭の中がいっぱいになるほど心が傷つけられているのに・・・。
 
 ギクシャクした人間関係に苦しみ、ゆえに心の不満を打ち明けたくて、
 自分の窮状を、いかに苦しんでいるのかを、
 いかに傷つけられたかを、心の内を知ってほしいために・・・、
 聞いてもらうことによって、知ってもらうことによって、
 今の自分の正しさを認めて欲しいとまで言わなくても、
 今の窮状の原因は、
 すべて、自分にはないと・・。
 だから、許すことなどできないのだと・・・・、
 
 心の思いを増幅させてはいるものの、
 どうにかして落ち着きを取り戻したいと、
 教会にやってこられる方が目立ちます。
 
 しかし、自分の意にそぐわない言葉など聞きたくはないし、
 欲しいのは、自分の気持ちにそった言葉なのだと・・・。
 私は罪など犯してはいないし、間違ってはいませんと・・・・。
 
 だかしかし、イエス・キリストは、次のように言われました。
 「あなたがたは互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、
 そのように、あなたかだも互いに愛し合いなさい。」
 (新約聖書・ヨハネによる福音書13章34節・新改訳)
 
 この言葉は、わたしたちが守らなければならないような行動規範ではありません。
 決して、集団の秩序を維持するたるのルールではなく、
 自然と湧き上がってくる意識や感情なのです。
 
 まぎれもなく、イエス・キリストの十字架の死という出来事、
 神が人間を愛したがゆえの決断の行為を物語っているのです。
 ・・・・わたしがあなたがたを愛したように・・・・。
 
 それと、わたしの人間関係の問題と、どう関係があるの・・・・。
 
 教会にはさまざまな問題が持ち込まれてきます。
 それは、つねに個人的な問題として持ち込まれて来ます。
 しかし、教会で語られるべきメッセージは、
 ・・すべての人間・・にたいしての課題なのです。
 
 ギクシャクした人間関係を、
 はからずも作ってしまったのは、当の人間なのです。
 人間同士の問題なのです。
 
 教会で語られているメッセージは、
 人間を造られた父なる神と、わたしたちとの関係なのです。
 
 創造主なる神の目から見れば、
 人間というものは程度のよく似た同類でしかありません。
 
 仮にも、その人が満足するような言葉を与えても、
 それは、決してなぐさめにもならないし、
 かえって道を、人間としての道を閉ざしかねないのです。
 
 教会で語られるメッセージは、
 つねに、人間の本質的なこと、
 本来的なことであらねばならないのです。
 
 人間の心の奥底にあるもの、
 見せかけの姿ではなく、わたしたちの本当の姿を・・・・。
 
 ただ、自分の気持ちや感情や思い入れか満たされることだけに心を留めようとする、
 神を忘れた、救いがたい人間の姿を・・・・なのです。
 
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
 それは御子を信じる者が、
 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新改訳聖書)
 
 人間たちすべてを、ひとつの単位として、
 「創造主なる神」と「被造物としての人間」という関係において語られるのがキリストの教えなのです。
 作者と作品という関係において・・・・。
 
 私たちは、みな「神の作品」なのです。
 現実の私たちは、
 ただ、そのことを忘れてしまって迷い続けている姿でしかないのです。
 人間は、みな兄弟であり姉妹なのです。
 
 ギクシャクした人間同士の関係にだけ心をうばわれずに、
 父なる神とわたしたち人間という関係で、物事を見てください。
 そこに見えてくるのは、「自分を知らない」わたしたちの姿なのです。
 
 「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、
 今や、キリスト・イエスにおいて、
 キリストの血によって近い者となったのです。
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。
 二つのものを一つにし、
 御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
 こうしてキリストは、
 双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、
 十字架によって敵意を滅ぼされました。
 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、
 また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、
 御父に近づくことができるのです。
 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
 聖なる民に属する者、神の家族であり、・・・・・」
 (新約聖書・エペソの信徒への手紙・2章19〜19節・新共同訳聖書)
 北白川 スー
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on July 15, 2015.