主に触れられて・・御霊と共に歩む


 教会が神について語るのは、当然のことのように聞こえるのですが、

 初めて教会に来た者にとって、

 それは、気持ちとして、しっくり来ないものがあるのです。

 言いかえれば、神から離れ、神から遠い者にとって、

 非常に違和感のあることなのです。

 さらに言いかえれば、

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事を知らない人たちにとって、

 つまり、福音が届いていない者にとって、

 神については遠いものなのです。

 教会が神について語るとき、それを聞く人の心の中に、

 それを受け入れることのできるもの、

 心のとびらを開かせる力・作用させるものは、

 イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味以外のなにものでもないのです。

 神がどれだけあわれみ深いお方なのかを理解させるものとして、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事の内容と意味とが明らかにされていないなら、

 喜びを持って神について耳をかたむけることはできないでしょう。

 クリスチャンとしての喜びとはいったい何でしょうか。

 イエス・キリストの愛を知ったからではないでしょうか。

 クリスチャンが喜びを覚えるとき、

 それはイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざを理解したときではないでしょうか。

 だからこそ、キリスト者として、罪を赦された者として立つことができるからではないでしょうか。

 そのようにして初めて、自分のことを考えるのではなく、

 イエス・キリストの栄光というものが自分のこととして理解されるのです。


 「わたしたちが神を愛したのではなく、

 神がわたしたちを愛して下さって、

 わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、

 御子をおつかわしになった。

 ここに愛がある。」

 (新約聖書・ヨハネの第1の手紙・4章10節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 20 January 2010.