キリスト教の信仰とは、約束への信頼そのもの


 キリスト教の信仰とは、約束への信頼そのものなのです。

 信仰の対象に聞き従うことなのです。

 この世界を造られた創造主なる、父なる神、

 神のひとり子イエス・キリストへの信仰とは、

 まさしく聞き従う信仰なのです。

 労役を伴う奉仕でもなく、苦行でもなく。

 人の手によって造られた物への礼拝でもなく。

 欲することでもなく、走ることでもありません。


 ・・・神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方による・・・・

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・9章11節・新改訳聖書)


 クリスチャンになるということは、

 キリスト教の信仰を持つということは、

 人がクリスチャンになるのは、

 その人の意思のように見えて、

 実は、その裏には、神の召しがあるのです。

 神によって呼び出される・・、

 神のもとに招かれるのです。

 気づいて信仰を持つ人もいれば、

 後々になって気づく人もいます。


 「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。

 また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、

 わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、

 非のうちどころのないものとしてくださいますように。

 あなたがたをお招きになった方は、

 真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」

 (新約聖書・テサロニケの信徒への第1の手紙5章23〜24節・新共同訳聖書)


 なぜ、神によって選ばれ呼び出されるのでしょうか。

 イエス・キリストが再びこの世界に来られるとき、

 キリストの再臨のとき、神の国(御国・みくに)の完成と救いの日・・。

 神の裁き・審判の日・・責められるところのないようにと・・・・。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という出来事を信じて・・・、

 イエス・キリストの生と死と復活という出来事を信じた者は、

 神の裁きから審判から救われることを意味しているわけです。

 その日、その人へ、天国か地獄かへの審判が下されるのです。

 決して、信仰を持った後に、行いを積み重ねることによって、

 それが評価されて、

 地獄へではなく、また天国へではなく、

 神の裁きから救われるわけではありません。

 イエス・キリストの贖いの業(あがないのわざ)が適用される者として神が認めた者・・こそが。

 永遠の苦しみではなく、

 永遠の命へと移される者となるのです。

 ですから、クリスチャンの信仰とは、

 行いではなく、信頼なのです。

 神の約束への信頼そのものなのです。


 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、

 あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、

 あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新改訳聖書)


   では、なぜ多くのクリスチャンは行いに走るのでしょうか・・。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの業についての内容と意味についての認識に欠けている可能性があると見なければならないのかもしれません。

 教会において常にくりかえしくりかえし、

 ”ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という出来事、

 イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが解き明かされているのかどうかという疑問が残るのです。


 「神はモーセに言われた、

 『 わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ 』。

 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、

 ただ神のあわれみによるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・9章15〜16節・口語訳聖書)


 信仰とは、欲することや走ることではなく、

 約束への信頼なのです。


北白川 スー

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Wrote up on 24 February 2011.