感謝の祈り
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祈りとは、”・・してください”ではない。
思う通りに事が運ぶように・・・。
自分の望みがかなえられるように祈る・・・。
人には、他の人には知られたくない・・願いや、
人知れない不安や悩みや苦しみが多々あります。
だから、キリストの教会にやって来ては、
その答えを求めて、その解決を求めて祈るのです。
どうしたら、不安や悩みや苦しみから逃れられるのか、
どうしたら、苦しまずに生きられるのか・・・・。
それが無いから・・・・、
それが手にはいれば幸せになれるから・・・、
だから、それをしてください、それをください、与えてください・・・。
しかし、それでは、何らご利益信仰と変わるところがありません。
聖書・バイブルには次のように書かれています。
「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座につき、私たちのために”とりなし ”ていてくださるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章34節・新改訳聖書)
キリスト・イエスは、私たちのために、とりなしてくださっているのです。
何を・・・・・。
祈られているのは、キリスト・イエスご自身なのです。
私たちのために・・・・。
なぜ、イエス・キリストは十字架に死なれたのでしょうか。
罪を認めない、神のひとり子イエスが・・・。
私たちに代わって、
私たちの罪を背負って、
罪人として十字架にかけられ死刑となった。
私たちの罪をあがなってくださった。
神の怒りの裁きを、
私たちに代わって、ご自身の体に受けられたのです。
では、どういうことになりますか。
私たちは、自分の願いを祈り求める前に、
まず、自分は闇の中にいるということと、
そしてその闇の世界を照らし出す、
光の世界があることを知らなければならないのです。
つまり、自分のかかえている不安や悩みや苦しみというものの原因は、
実は、
自分の心のなかにある闇・「罪」にあることを知らなければならないのです。
私たちが「罪人」でなかったなら、
どうしてキリスト・イエスは、十字架の上で死ななければならなかったのでしょうか。
私たち人間が、みな等しく、神にたいして負い目を負っている、
つまり罪を背負っているからではありませんか。
私たちは、罪を背負って生きていかなければならない宿命にあります。
だから、私たちの前にあるのは”罪から来る闇 ”ではなくて、
光であることを知らねばならないのです。
それを知るところに生まれてくるのが「祈り」なのです。
キリスト・イエスが、私たちのために、とりなしてくださっていることを忘れないでください。
私たちは、ひとりではありません。
私たちが、不安なときも、悩めるときも、苦しんでいるときも、
キリスト・イエスは、私たちのために祈ってくださっているのです。
とりなしてくださっているのです。
それを知ることが「祈り」そのものなのです。
私たちがささげるキリスト・イエスへの祈りによって、
キリスト・イエスが私たちを支えてくださっていることを知るのです。
ですから、祈りは決して暗いものではありません。
心からの感謝に満ちた、喜びに満ちた、
キリスト・イエスに、ささげるものなのです。
「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、
すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章18節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on October 12, 2015.