スタートライン
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キリスト教の信仰が人間社会に広がりを見せ始めるにはスタートラインがあります。
長い時間をかけて、組み立てられた地域社会があり、
土着の宗教や文化や暮らし向きの形があり、
それらの影響によって、最初に立つ位置が異なるはずてす。
聖書・バイブルのメッセージが明確なものであっても、
何を意味しているのか、
はっきりと理解できるとは限らないのです。
日本のクリスチャンの中には、
信仰生活を重ねる中で、常に際立ってくる問いかけがあります。
教会は、聖書・バイブルに基づいた正確なメッセージを発信しているのだろうか・・・という疑いなのです。
信仰を持つこととなった原因とか理由に、
最初に、福音のメッセージを聞いた人、
最初に、聖書・バイブルとの出会いを経験した人、
最初に、教会に出会った人、
最初に、クリスチャンに出会った人・・・・などなど。
それは、人によってはさまざまです。
福音のメッセージを解き明かす人がいて、
そのメッセージに接して、
正直に自己と向き合うようになった経験があるはずです。
自分の心の中にあった、
しきりのようなもの、壁のようなもの、
立ちはだかっていたもの、妨げていたもの、
それらが、揺り動かされて、取り除かれて・・・。
大きく一歩を踏み出したはずです。
感情的な偏見が取り除かれたと言っていいでしょう。
しかし、感情的な偏見が取り除かれず、
いつまでたっても、しこりとして残っている人もいます。
教会に来たものの、
福音のメッセージを聞くこともなく、
教会から遠ざかっていく人もいます。
創造主なる神の究極の決断と態度の決定という出来事、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
福音の内容と意味なのですが、
しかし、イエス・キリストの十字架の出来事が、
礼拝で、説かれず、解き明かされない教会も存在しています。
私たちは、日本という限られた社会の中に属していることによって、
長い時間をかけて、身についてしまった考え方ややり方あります。
意識しなくても身についてしまった偏りがあるものなのです。
その中で、福音のメッセージを、
具体的に詳しく明らかにしなければ、
イエス・キリストの十字架の出来事を明らかにしなければ、
神の啓示を明らかにしなければ、
キリスト教の信仰は広まりを見せないでしょう。
避けて通れるものではありません。
「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
キリストの言葉とは、
創造主なる神によって備えられた、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いの出来事なのです。
こと日本は、ごくごく入口で立ち止まっているのかもしれません。
スタートラインにさえついていません。
オン・ユア・マーク・・・。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on April 11, 2014.