信仰心からではなく



福音は、人間が潜在的に持っている信仰心を満足させるものではなく。
また、その人が抱えている困難を解決するものでもない。

福音は、人間の本性的な性質を、
生まれながらに負っている性質を問題にしているのです。

その性質が、
人間の思いや言葉や行為や行動に影響を与えているのです。

自分では少しも意識はしませんが、
人間の行動や考えに強く影響を与えている性質を、
福音は問題にしているのです。

しかし、日本の多くの人は、そのようには考えません。
まったく別な期待を抱いて教会へ身を運んでいると言っていいでしょう。

キリスト教の教会は、そのような人たちのために存在しているのではありません。

なぜなら、
福音、すなわち、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
すべての人に向けて明らかにされた、
神の啓示の出来事だからです。

救い主・イエス・キリストがこの世界に生まれ来たということは、
この世界が、私たち人間を含めたこの世界が、
世界を創造された神の目から見て、
堕落していると考えなければならないのです。

私たちが、救われることも逃げることもできない状態でなければ、
救い主・キリスト・イエスが生まれくる必要などないのですかから。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が福音であるわけですから。
その対象は、すべての人たちなのです。
特定の人たちに向けて語られているのが福音ではありません。

福音は、
私たちの内なる宗教心や信仰心を求めているのではなく、
私たち自身に向きあうことを求めているのです。

私たちは、ありのままの自分に気づいてはいません。
自分自身の背景に何があるのか・・・・・。
私たちの心の内にあるものを・・・・。
それを気づかせるのが、
イエス・キリストの十字架の出来事なのです。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
わたしたちはこう考えます。
すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、
すべての人も死んだことになります。」

(新約聖書・コリントの信徒への手紙・5章14節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on January 06, 2015.