苦難や困難・・・なぜ神は許したのか



人は、苦難や困難に出会ったとき、
苦しく、また痛みを伴う状況におちいったとき、
なぜ、どうして、神はそれを許したのかと神を責めます。
神は、なぜ苦難を困難を許したのかと・・・・。
神なら、私たちに苦難などあわせないはずだと。
それが神だと・・・・。
神は慈愛・慈悲の神、恵みの神だと・・・・。
神は、人を、いつくしみあわれむものなのだと。

しかし、
人は自分自身の罪深さを考えない。
自分の思いや言葉や行為や行動が結果を招いたことを忘れている。
結果には原因があることを。
つねに自分を正当化する・・・それが人間なのだ。

それは、あなた自身のせいだろ・・・とでも言えば、
きっと、あなたは怒りだすだろう。

聖書・バイブルは次のように語っている。

「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。」
 (旧約聖書・詩篇・128編1節・口語訳聖書)

神は、神をおそれかしこむ者を祝福される、真理である。
つまり、神の言葉に聞き従わない者は祝福されないのだ。
祝福されないどころか、
私たちの思いや言葉や行為は、
火に油を注いでしまうのだ。

神は恐れるに値する力を持っている。
ご自身のひとり子イエスの命を十字架の上において、
その怒りの刃をイエスの上にくだされたのだから。

私たちのために・・・・・。

神に聞き従わない私たち罪人のために・・・・。
ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・。
神に聞き従っていれば死ぬことはない。
これが真実である。

失敗や経験からさえ学ぼうとはしない私たち・・・。
何度も何度も同じ過ちをくりかえす・・・。
なんと罪深い存在だろうか。

「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、
彼らの耳を逆境によって開かれる。」

 (旧約聖書・ヨブ記・36章15節・口語訳聖書)

神は常に私たちに語りかけられている。
しかし、聞かないのは私たちなのだ。

私たちは、社会や共同体のシステムや構造や約束に問題があると言う。
社会や共同体に欠陥があるのだと言う。

しかし聖書・バイブルは、
人間にこそ問題があるのだと・・・・。

私たちの苦難には意味があることを、
はっきりと見つめなければならない。


北白川 スー

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Wrote up on February 26, 2013.