ひとりの人がすべての人のために死んだ
 ひとりの人が ” すべての人のために死んだ ” という出来事は、
 つまり、イエス・キリストがすべての人の罪を、
 その身に負い、身代わりとして、
 罪人として十字架にかかり死んだという出来事は、
 ” すべての人の罪の代価を ” その命をもって支払ったという・・・・、
 十字架の死による ” あがない ” の出来事なのです・・・・・・。
 この出来事の意味するところは、
 人類ことごとく、だれひとりの例外もなく、
 すべての人に、ひとしく問題があることを意味しています。
 だれひとりの例外もなく、人類すべてに問題があるからこそ、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事に意味が生まれてくるわけです。
 私たちが意識しようがしまいが、
 どのような人であっても、その心の内に問題はかくされているのです。
 しかし、たちの悪いことに、私たちは、心の中に隠されている問題に気づきません。
 心の中に隠されている、性質に、体質に、品質に問題があるのです。
 その性質が、体質が、品質が、
 思いとなって、言葉となって、行為となってあらわれてきます。
 それが罪のあらわれなのです。
 とても根の深い問題なのです。
 日本人の多くは、それとは気づいてはいません。
 自分の本当の姿というものが見えていないのです。
 この罪深さこそ、この世界を造られた神が取り扱われるところのものなのです。
 多くの人が、私は罪など犯してはいないと言われます。
 しかし、
 救世主として、メシアとして、神のひとり子イエスが人として生まれたということは、
 この世界を造られた父なる神の目からみて、
 この世界は救いがたく堕落していることをあらわしているのです。
 私たち人間が、逃げることも救われることもできないほどに、どっぷりと、
 得たいの知れない、正体が見えないものに、
 捉えられ、はまり込んでいるのです。
 それが、生まれながらに負っている罪深さの正体なのです。
 それを ” 原罪 ” と言います。
 それが、私たちを捕らえて放さないものの正体なのです。
 それが思いとなり、言葉となり、行動となってあらわれてくるのです。
 この世界を造られた神によって人類が創造されたとき、
 人は、神との人格的な交流の下に存在していました。
 何不自由のない関係にあったのです。
 しかし、人間の始祖であるアタムとエバが、父なる神に背いたため、
 神との人格的な交流は断たれてしまったのです。
 それ以来、私たち人間はこの地上をさ迷い続けているのです。
 指導者を失ったように・・・、
 導き手を失ったように・・・・、
 羅針盤を、かじを失った船のように、
 灯台をGPSを失った船のように・・・、
 ナビゲーターを失い進路を外れてしまったラリー・カーのように・・・、
 まさしくわたしたち人間の姿そのものなのです。
 ですから、私たちは救い出されなければならないのです。
 罪の中から・・・・・。
 これらの問題を考える上でもっとも大切なことは、
 この世界を造られた神が、
 被造物である人間を、
 どのように扱われたのかということを知らなければなりません。
 つまり、私たちの罪をどのように取り扱われたのかということです。
 それが、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
 神の取り扱われ方を知ることによって、
 私たちの本当の姿が明らかになるのです。
 「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、
 この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、
 御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」
 (新約聖書・ガラテア人への手紙・1章4節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 21 July 2009.