まだ知らない世界へ



人は、さまざまに迷いの中に、とらわれの中にあります。
さらに言えば、それすら気付いていないのが現実でしょうか。
何ものかに囚われ迷っているとは気づいていないのです。

キリストの福音は、人々をその迷いの中から、
とらわれの中から救い出すものなのです。

しかし人は、その迷いゆえに、その捕らわれゆえに、
気をうばわれ、目をうばわれ、
その外に、その向こうに側にある世界を見ることができないのです。
迷いの向こう側に、キリストの福音が光輝いていることすら知らないのです。

人は傷つき、迷いから捕らわれから抜け出そうと、
あがき苦しんでいます。
その苦しみに、その痛さに、気をうばわれ続けているのです。

私たちはさまざまに傷つき、悩み、心配し、不安に思い、
そこから抜け出したいと願ってはいます。

しかし、その現実に直面している問題自体に、
自分自身がとらわれているとは気づいていないのです。

目の前にある問題を、
何らかの方法で解決することを人は望んでいます。

それこそが自分にとって救いだと福音だと信じているからです。

その問題が解決されることが、
解決する方法が、決して救いでも福音でもないことに気付いていないのです。

自分自身を閉じこめ、目をおおいかくし、
支配しているものが何なのかを見通す力すらうばわれているのです。

では、支配しおおっているものを取り払うものは何んでしょうか・・・。

それは、まさしく自分を閉じこめている世界の外に、
その向こう側に存在しているのです。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、
だれがあなたがたを惑わしたのか。
目の前に、
イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」

(新約聖書・ガラテヤ人への手紙・3章1節・新共同訳聖書)

目先の問題に捕らわれ、
キリストの福音に目を向けないのなら、
イエス・キリストの死は意味をなさないものとなることを知らなければなりません。

まわりが見えないということは、
客観性を失っていることを意味します。
自分自身を冷静に観察することができないのです。
自分の姿が見えていないのです。
自分の心が見えていないと言っていいでしょう。
ありのままの自分の姿に気づいていない。
本当の自分が見えていないのです。

十字架にかけられたイエス・キリストは、
あなたの本当の姿をあらわしているのです。
罪びととして死刑となった・・・・・・。

イエス・キリストは、あなたに代わって、
罪人として十字架にかけられ、
あなたに代わって、
その罪の代価を死をもって支払ってくださったのです。
その罪とは・・・・。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on May 26, 2015.