悔い改めとは


 キリスト教の信仰では、

 「懺悔・ざんげ」とか、

 「悔い改め・くいあらため」という言葉がよく出てきます。

 自分の犯した、見過ごすことのできない過ちを告白し、

 今後、改めることを意味していると考えられているわけですが。

 映画やドラマで、

 神父さんに対して、

 自分の、見過ごすことのできない過去のあやまちを告白するシーンがよく描かれています。

 クリスチャン自身も ”悔い改め ”という言葉をよく口にします。

 しかし、どうも本来の意味から離れているようにも見えます。

 「以後気をつけます」という意味あいであったり、

 日々の悔い改めは恵みです・・・という表現であったり。

 さて、聖書・バイブルでは悔い改めとはどのような意味を言っているのでしょうか。

 聖書には、悔い改め・”メタノイア ”・として使われています。

 本来の意味は、”神に立ち帰る ”ということです。

 悔い改めとは、過去を捨て、新しい生を求めて神に立ち帰ることを意味しているのです。


 ・・そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。・・

 (新約聖書・マタイによる福音書・4章17節・新共同訳聖書)


 聖書・バイブル・が言う悔い改めとは、

 根本的な方向転換のなにものでもないのです。

 聖書における悔い改めとは、神に立ち帰ること意味しているわけですから、

 悔い改めとは、過去を捨て、新しい生を求めて神に立ち帰ることを意味していことは明白なのです。

 過去を捨て、新しい生を求める・・・・。

 過去にたいする深い反省と、

 将来への決断を含んでいるのです。

 決して、行動の連続性における更新ではなく、

 根本的な方向転換を意味しているのです。

 根本的な価値観の転換と言えます。

 クリスチャンであっても人間ですから、

 信仰の道を歩みながらも神を見失うこともあります。

 自分が直面していると思いこむ、

 社会問題や経済や人間関係に気を入れ込み、

 神のビジョンを忘れ、

 自分ひとりがクリスチャンであるかのような、

 何か高ぶりの状態におちいることもあります。

 忘れてはならないのは、神との関係なのです。

 何か人間の行為が社会を良くするかのように思い込み、

 神の力や栄光を忘れることもあります。

 と、なれば、

 クリスチャン自身が悔い改めなければならなくなります。


 「 神の御心に適った悲しみは、

 取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、

 世の悲しみは死をもたらします。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・7章10節・新共同訳聖書)


 忘れてはいけないのは、

 悔い改めとは、

 根本的な方向転換のなにものでもないのです。

 決して自己反省で終わるものではありません。


 「 この民の心は鈍くなり、

 その耳は聞えにくく、

 その目は閉じている。

 それは、彼らが目で見ず、

 耳で聞かず、

 心で悟らず、

 悔い改めていやされることがないためである。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・13章15節・口語訳聖書)


 なぜ、イエス・キリストは、

 十字架に死んで、私たちの罪を贖って(あがなって)くださったのでしょうか。

 軽い・・悔い改めで済むのなら、

 イエス・キリストが命をささげる必要もないわけです。

 本質は・・救いへと導く悔い改めを生まれさせる・・・ことなのです。


北白川 スー

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Wrote up on 22 January 2012.