互いのプライドを満たしあう
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ホストと客との、押したり引いたり、ウソかまことか虚虚実実の駆け引き・・・。
みついだり、みつがせたり、互いのプライドを満たしあう・・。
テレビの番組などで、ホストクラブとその客との姿がよく紹介されます。
自分にはかかわりのない、おもしろい別世界の話しだと思って見ておられるでしょう。
ホストの印象的な言葉がありました。
・・ウソをつくことだってあるさ、そうしなければ自分の立場がなくなるから・・。
よく目にする職場の人間関係のトラブルというものがあります。
決まって自分の正しさを言い争うものです。
自分の感情に、自分のやり方や考え方に正直になればなるほどトラブルは大きくなります。
日本人の精神風土を考えてみれば、日本人の意識は「性善説」の上に立っているようです。
「ウソ」をつくということは、偽りを言って自分をあざむいているという意識があるわけです。
もともと善なのですから、善でないことを言うのが「偽り」ということになるわけです。
もともと善であるということは、自分の感情を正直に言っていれば、
それが正しいものなのだということになるのです。
視点を外に求めず、自分の目から見えるものがすべてだと思っているわけです。
そうならば、毎日のように繰りかえされるいさかいが絶えないのもうなづけます。
少しぐらいホストクラブを見習ってもいいのじゃないとも思います・・・。
でも日本人のかたくなな考えは、人間というものは、もともと善なるもので、堕落などしていない。
だから、人が悪くなるのは、まわりの悪い環境のせい、まわりの悪い社会のせいなのだ。
だから社会の健全性を求めれば人間も良くなるはずだ・・。ということになります。
聖書・バイブルは次のように語っています。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
(新約聖書・ローマ人への手紙3章10〜12節・新共同訳)(旧約聖書・詩篇14章参照)
おろかな者は心の中で「神はいない」と言う。
善いことをする者などひとりもいない。
創造主なる神は、天から人の子らを見おろして、
神をたずね求める者がいないかご覧になっている。
クリスチャンは、みな善人面して好かんとよく言われます。
しかし、キリスト教の教えは、決して単純な性善説ではありません。
もし人間がもともと善なるものなら、自分はどうなのかと考えてみれば、だれしも思いあたる節があるでしょう。
決して悪い点のまったくない善なる者でないことを。
人間というもの、悪いところのまったくない者も、初めから終わりまで善を行う者などひとりもいないのです。
そう思えば、自分の弱さに悩んだり、
目を逆立てて、他人のミスをさがしだすことなど愚かしいことだと分かるはずです。
人間というものは、もともとおろかで弱く、正しくものを見ることのできないものだという認識に立たなければ、
人間の混乱した状態から抜け出すことなどできないのです。
もし人間が基本的にかしこくて、よく物事の正しい道理が分かるものだとすれば、
世界で起きているさまざまな争いや矛盾などについて説明できなくなります。
人間とはおろかしい者なのだと思えばこそ、神という存在を前提におくこともできるのです。
至高の存在としての神を意識すれば、
その前では、
限りのある人間は、謙虚にへりくだって、自分の存在を低いものとして認識せざるをえないのです。
ですから、何ごとでも神を意識して、神の前にもっていけるわけです。
それが見えざる神にたいする信仰というものです。
しかし父なる神は、それを見える形であらわされました。
それがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
父なる神が、私たちのおろかさ、罪深さというものにたいして、
つまり、神を神と思わないという人間の最大の罪について、
創造主なる神に栄光を返さず、神の創造をないがしろにしている人間の罪について、
神のひとり子イエスの命という代価をもって、
神との和解と、私たちの罪の赦しを与えてくださった出来事なのです。
キリスト教信仰というものは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の、
内容と意味とを正確に理解し、承認し、自分のこととして受け入れることなのです。
だから、イエス・キリストの十字架の出来事を感謝の気持ちをもってあおぎ見ることができるのです。
「もし、あなたがたのだれかが、
自分はこの世で知恵ある者だと考えているなら、
本当に知恵ある者となるために愚かな者になりなさい。
この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」
(新約聖書・コリント人への第1の手紙3章18〜19節・新共同訳聖書)
ここ日本では、信仰は、すなわち、
おろかしくみじめで人を盲目にするものだと考えておられる方が多数を占めています。
しかし、人間というものは、もともとまわりが見えず弱々しいものだという認識にまず立たなければ、
そこから抜け出すことなどできないのです。
人間とは愚かで弱い存在だという認識に立たなけば、
人間の弱さをになって十字架につけられたキリスト・イエスにたいする信仰というものが始まりません。
そしてそれは決してみじめなものではなく、明日への希望を抱かせるのです。
もちろん神の前でという意味です。
神と共に歩む信仰というものは、豊かな恵みある人生が約束されているということです。
しかしそれは、
決して物質的に豊かな近代的な暮らし向きを約束しているものではありません。
むしろその逆でしょう。
北白川 スー
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