罪の意識がなければ



どの現場であっても、生産性や効率、品質を考えたルールが存在しています。
ルールがあればこそ共同作業は成り立ちます。

現場のルールに適応できず、
現場の環境や、条件などに調子をあわせることができず、
心身にストレスを積み重ねることもあります。

よく現場でおきてくる、人間関係の混乱の、その原因をさぐれば、
まわりから見て、ルールに反しているように見えても、
ルールに反しているとは思っていない。
自分を疑ってみることもしない・・・。
過ちを過ちとは思わないし、許されると思っている。
だから繰り返すことになる。

つまり、本質的なことに気付いていないのです。

罪の意識が希薄な日本人の独特な精神性がそうさせているのかもしれない。

共同社会の中に日々の営みがあります。
共同社会の秩序を維持するためにもルールは存在しています。
しかし、共同社会のルールが存在していても、
自分自身の考えややり方が最もであり優先すると考えるなら・・。
混乱が生れてくるし秩序は乱れてきます。

聖書・バイブルは指摘します。
律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られているのであり。
律法によっては、罪の自覚が生じるのであると。

「さて、わたしたちが知っているように、
すべて律法の言うところは、
律法のもとにある者たちに対して語られている。
それは、すべての口がふさがれ、
全世界が神のさばきに服するためである。
なぜなら、律法を行うことによっては、
すべての人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章19〜20節・新共同訳聖書)

この罪という意識こそ、
キリストの福音にとって、避けては通れないテーマなのです。

罪の意識が希薄なら、
キリストの福音は理解されないと考えてよいでしょう。

罪というテーマを取り上げないのなら、
福音を解き明かすことはできません。

仮に、日本人の精神性が、罪の意識が希薄なら・・・。

イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事は理解できないかもしれない。

死によってしか罪は償われない・・・という意識は理解されないかもしれない。

日本では、交通違反を犯しても、
反則金や、講習を受けることにより違反は帳消しになります。
刑罰とはならないのです。
罪を犯した者にたいする制裁とはなりません。

罪とは何かということについての受け取り方がはっきりしない。
何が罪なのかも明確ではない・・・。
罪は償わなければならないという意識は、なじまない・・・。

日本の社会では、
過失にたいしては再教育という形で更生させるわけです。

日本の裁判では、
過失にたいしての罰を判定するのではなく、
改悛の情を判定することに重きを置いているようです。
自分の犯した罪を、あやまちをどこまで改めるのかを見るのです。
心を入れ替えれば、罪は許されるのです。

神への罪は大罪であり、
死をもってでしか償えない・・・。

その罪が、思いとなって言葉となって行為や行動となって、
表に現われてくる・・・。
それが私たちの現実の姿なのです。

だからキリストは十字架刑により、死をもって、
私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。

「神はこのキリストを立て、
その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
それは、今まで人が犯した罪を見逃して、
神の義をお示しになるためです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章25節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on December 03, 2014.