日本のキリスト教には長い歴史がありますが
なぜ全人口の1パーセントを境にして一向に増える気配もなく、変化も見られないのでしょうか。
長い歴史があると言いながらも、キリスト教について、イエス・キリストについて、
イエス・キリストの十字架の出来事について、
イエス・キリストが十字架の上で死ぬことによって、すべての人の罪の代価が支払われたという、十字架の死によるあがないの出来事が語られてきたとは言い難く、
地域社会に、メディアに、暮らしに、
キリストの香りも雰囲気も存在感さえも希薄な日本の社会なのです。
私たちの日本の社会は、
神なしで生きていける・・神を意識しなくても生きて行ける社会なのです。
占いやスビリチュアルや心霊は持てはやされても、
神を意識することすら見下げられる社会、
怖い人が、弱い人がするもののように見られています。
かと言って、何の問題も存在しない、幸せな日本の社会だとは言い切れません。
さまざまな問題の満ちた深刻な社会なのですから・・・。
キリスト教では、社会の欠陥を、人間の欠陥にまでさかのぼって原因をはっきりさせようとします。
聖書・バイブルは、
「ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・」と言っています。
(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2の手紙5章14節)
ひとりの人、すなわち、神のひとり子イエス・キリストがすべての人の罪をその身に背負って死ぬことによって、その罪の代価を支払われたことを意味しています。
すべての人間に欠陥があるとさし示しています。
それを、生まれながらに負っている罪「原罪」と言います。
生まれながらに負っている罪深さという本性が、人の思いや言葉や行為になってあらわれてくるのです。
救われがたい人間なのです。
日本人はとくに、自分というものを大切にする風土でしょうか。
自分さがし・とか、自分らしく・とか、自分の可能性・とか、自分を活かして生きる・とか・・・。
その思想の根底には、自分は正しい・自分は義なのだという、
そこにあるのは「正しい自分を・・・」なのです。
自分は正しい、悪いのはまわりや社会や社会の仕組みなのだ・・・。
それではキリスト教が言うところの「救い」や「赦し」という思想は成り立ちません。
では、イエス・キリストの十字架の出来事は、いったい何だったのでしょうか。
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、
違反行為の責めを人々に負わせないで、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。」
(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2の手紙5章19節・新改訳)
救いとは、赦しとは、私たちが自分自身の罪深さを認識し、
その罪深さから解き離なつことのできるイエス・キリストの十字架の出来事を信じる信仰によって、本当の意味で正しい者とされ、和解と赦しと救いとがもたらされるのです。
それが和解の言葉である福音と言われるものなのです。
”自分 ”というものに立っている人は、
”すべての人 ”のために死んでくださったイエス・キリストを、いつまでたっても受け入れられないものなのです。
いちど自分から離れて、自分を含めた人間をながめなおしてみてください。
神と和解できる見込みがあるかもしれません。
北白川 スー
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Wrote up: 01 January 2008.