まず人間について知らなければならない
キリスト教信仰を考えるとき、まず人間について、
最初に自分自身について考えなければならない。
人間は、だれひとりの例外もなく、みな罪深い存在だということを知らなければならないのです。
この考察を避けて通ることはできないのです。
もしも、このテーマの本質を明らかにしないままで信仰を持とうとするなら、
その信仰は、イエス・キリストの十字架の出来事から遠く離れたものになるはずです。
キリスト教の信仰は、イエス・キリストの十字架の出来事と切っても切れない関係にあるのです。
いや、そのものと言っていいのです。
何をさておき、まず第1に考えなければならないものなのです。
罪を認めないイエス・キリストが罪人として十字架刑により処刑されたということは・・・・・、
まず、この事柄を後回しにして考えることはできません。
この出来事は、私たち人間の本性に深く大きくかかわる出来事だからです。
イエス・キリストの十字架の出来事は、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
ひとりの人がすべての人の身代わりとなり十字架にかけられ、
死刑となり葬られ、
さらには三日の後に死人のうちからよみがえったという出来事・・・・。
イエス・キリストがすべての人の罪深さを、ご自身の命をささげることによってあがなったという出来事なのです。
ご自身の命と引き換えに罪の代価を支払われたのです。
私たち人間は、だれひとりの例外もなく、
この世界を造られた神の怒りを受ける者として、
神へのそむきの罪のむくいとして、
罪を犯したものに加えられる、
当然にして受けるべきむくいとして、
神の怒りに服すべく生まれてくるのです。
だれひとりの例外もなく・・・・・・・・。
私たちは人生の終わりに死をむかえます。
人生の命が終わるとき死を迎えます。
死を、私たちは当然のこととして理解していますが・・・・、
また受け入れようとしますが・・・・・、
死が私たちを支配しているのです。
しかし、人生は死で終わらないとしたら・・・・・・。
そこに待っているものが、天国もしくは地獄だとしたら。
「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、
なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、
ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章17節・新改訳聖書)
キリストへの信仰は、永遠の命を約束するものです。
私たちはだれひとりの例外もなく神の怒りを受けることに定まっています。
しかし、十字架の出来事において神との和解を成立させてくださったイエス・キリストを信じる信仰によって、
神と和解し、
神との和解により、
怒りではなく恵みを受ける身と変えられるのです。
「 このようなわけで、1人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章12節・新共同訳聖書)
1人の人とは、人類の始祖であるアダムです。
アダムが取って食べてはいけないと言われた果実を取って食べたという出来事・・・・・父なる神への背きの罪のことです。
この出来事以来、人類に罪の報いとして死が入ってきたのです。
アダムの出来事により全人類を支配するようななった罪を「原罪」と言います。
私たちがさまざまに形を変えて犯す罪の、そもそもの張本人なのです。
だからと言って、悪いのは原罪であって自分ではないと言わないでください。
そうではなく、あなたの心が、この世界を造られた父なる神から離れているからなのです。
これが罪の本当の姿です。
日本の多くの人たちの心は、私たちを造られた父なる神から離れています。
それが不安や混乱や悲しみや苦しみの原因なのです。
父なる神との関係を回復することこそ、
私たちの人生を正すものなのです。
そこにあるのは苦しみではなく、心の平安なのです。
「 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、
和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章10節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 16 June 2009.