すべて、疲れた人、重荷を負っている人は
キリスト教の信仰は、何か特別な人たちのすることだと思われています。
しかし聖書が語り伝えるる出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
特定の人に向かって語られようとしているものではなく、
すべての人が対象なのです。
ひとりの人、それも神のひとり子であるイエス・キリストが、
すべての人の罪をその身に負い、すべての人に代わって、
身代わりとなって罪人として十字架にはりつけられ、
罪人として処刑されることによって、
すべての人の罪を、その命をもって贖って(あがなって)くださったという出来事なのです。
私は正しく生きている、罪など犯してはいないと言う人もいますが・・・、
「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(新約聖書・マタイによる福音書・11章28節・新改訳聖書)
キリスト教は、なにか物事の成り行きを見通したようなことを言い、
善人ぶって、賢者ぶって見下した態度が嫌いだ・・・・と、苦評する人もいます。
イエス・キリストは、すべての人を対象に、すべての人に向かって語られたのではないでしょうか。
キリストの福音は、すべての人が対象なのです。
ここで語られた ” すべて疲れた人、重荷を負っている人 ”・・・・、
ここで言われたすべての人とは、特定の人を指し示しているのではありません。
ある特定の弱者に向けた言葉ではありません。
暮らしていく上で何らかの問題を抱えている人・・・、
生活に疲れ、苦しんでいる人たちに向けられた言葉ではありません。
イエス・キリストすなわち、救世主メシアがこの世界に生まれ来たということは、
神の目から見て、この世界は堕落している証拠なのです。
だれひとりの例外もなく、すべての人が罪の支配に・・・、罪の下にあるのです。
私たちは、ありのままの自分の姿が見えていないと言っていいでしょう。
大切なことが見えていないのです。
罪というものが、私たちの思いや言葉や行為に影響を与えて、
知らず知らずのうちに罪を犯しているのです。
具体的な行為よりもさらに深いところにあるもの・・・、
罪を犯しているということすら気づいていないのです。
だから、イエス・キリストへの信頼というものが、
イエス・キリストに聞き従う信仰というものが生きてくるのです。
この世界を造られた神にたいして大きな重荷を負っているのは、
私たち人間なのです。
だから、その神との和解がなければ私たちの救いはありません。
北白川 スー
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Wrote up: 08 November 2009.